蒲生秀行廟(会津若松市)

 

最重要事項

蒲生秀行のおじいちゃんは織田信長、

奥様は徳川家康の三女、振姫。

秀行さん血筋も良いし

徳川とのパイプも極太です(笑)

戦国大名にとって、

「強力な縁戚関係」というのは、

生きる上で必要不可欠なこと。

蒲生秀行が会津91万石から

宇都宮18万石に格下げされても

関ケ原の戦い後、

会津に60万石で復帰できたのは

嫁さんが徳川家康の娘だったからでしょう。

縁戚関係によって

罪に問われても無罪だったり

無実でも切腹になったりする時代、

名家の娘との結婚は、

家の存続に関わる最重要事項でしょう。

蒲生秀行廟

AIZUチャンネルという

YouTubeで会津若松のことを

随分学びました・・

地元の方が愛情を持って

動画を作られているので、

ビンビン心に響いてきます・・

そこで知ったのが、

江戸時代初期の建物が残る

蒲生秀行廟のことで、

旅の初日、

最後の目的地としての訪問です。

お寺の境内の一角に

廟はそびえています、

こりゃ〜凄い覆屋だ〜!

今までにこんな覆屋

見たことないですよ。

茅葺き屋根を守るための「心意気」、

大いに感じ入ります。

完全スケルトン式なので、

建物本来の姿を直に見ることが出来、

古い建物好きな僕には、

有難い限りです。

案内を書き出すと、

以下になります。

「蒲生秀行は、文禄四年(1595)から

慶長三年(1598)までと、

同六年(1601)から

同十七年(1612)までの

二回にわたって会津の領主であった。

廟屋は大きい切り石を二段に積んだ

高い一重基壇によって造られ墓室上に、

石造五輪塔(2.7m)を据え、

これを木造覆屋で被覆している。

この廟屋は、遺構の原型部分、

とくに懸魚や木鼻に

桃山ないし江戸初期の特色があり、

建立は秀行卒年(1612)の

間もない頃と考えられる。」

正面に回って撮影。

覆屋内部の五輪塔に参拝。

覆屋の覆屋(笑)は実に壮観。

それにしても立派な廟ですね!

近くに建つ

大正二年建立の石碑「我花碑」。

題字は松平容保の次男、

松平武雄と刻まれ、

漢文なので内容は不明ながら

蒲生秀行について書かれているようです。

館薬師堂

福島県の町並みと歴史建築」という

サイトによれば、

「境内は中世会津地方を支配した

芦名家四天王の筆頭

松本氏の一族である

松本右馬允の居館、

允殿館の跡地とされます。」

「会津藩主蒲生秀行が死去すると

当地に境内を構えた菩提寺、

弘真院に葬られ廟所が設けられました。」

「跡を継いだ蒲生忠郷は、幼少(2歳)の頃

病弱でしたが北山薬師堂で護摩祈祷を行い、

その御利益によって元気に成長出来た事から、

北山薬師を篤く信仰するようになり

弘真院の境内に瑠璃光薬師堂を造営し、

後に地名に因み

館薬師堂と呼ばれるようになりました。」

「現在残されている館薬師堂は

弘真院の主要御堂であると思われる」

このように書かれています。

参道。

本堂に参拝。

扁額には「瑠璃殿」の文字で、

瑠璃光薬師堂の名残を確認できます。

美しく手入れされた境内に佇むと

今でも蘆名家、蒲生家は、

地元の方々に愛されているんだと実感します。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください