岩戸山歴史交流館/那国王の教室

 

備忘録的撮影

岩戸山古墳に隣接する

岩戸山歴史交流館「いわいの郷」、

実に素晴らしい内容でした!

古墳へ行く時間もあったので、

ここでは短時間の滞在でしたが、

館内は「写真撮影OK」なので、

僕はとにかく備忘録的に、

写真を撮りまくりだったことが、

良い思い出になっています(笑)

そして、

その写真があるからこそ、

このブログも書けるというもの、

「いわいの郷」さん、

撮影可能にしてくれて、

本当にありがとう!

入場

バスを降りた御一行様は、

「いわいの郷」へと向かいます。

岩戸山古墳マップ。

建物外観。

正式名称は、

「八女市岩戸山歴史交流館 いわいの郷」。

筑紫君磐井さんのお出迎え、

かたじけなし!

顔出しパネルは絶対やります(笑)

南北朝時代のパネル

館内へ。

床の古代地図。

そして、

広いロビーの一角には、

磐井の時代から800年後、

南北朝時代の戦乱と八女との関連が

パネル展示があります。

良成親王終焉の地(陵)が

八女市にあるということで、

南北朝時代も「推し」の一つに

なっているようです。

九州における南北朝時代の動乱、

南朝方の主役は、

後醍醐天皇の皇子、懐良親王と

大保原の戦い(筑後川の戦い)で

活躍した菊池武光

北朝方の主役は最終決着に導いた

今川了俊でしょう。

足利尊氏の九州下向と、

多々良浜の戦いで勝利し東上、

最後は湊川の戦いで楠木正成を破り、

京都凱旋への道が記されています。

八女の武士は多くが南朝方として、

参加していたそうです。

良成親王が星野村または矢部で

亡くなったこと、

八女市黒木町の五條家に伝わる

「五條家文書」が紹介されています。

八女市内に残る南朝の歴史。

注目は懐良親王の墓が、

八女の星野村にもあるという事、

初めて知りました。

宮内庁比定地の熊本県八代市のお墓が

気になっていた矢先なので、

星野村、俄然クローズアップです(笑)

常設展示室

前菜(失礼!)の南北朝から、

メイン料理の磐井さんの時代へ。

「磐井とその一族」

以下、解説の抜粋です。

「手前に描かれている四人の人物は、

磐井とその一族で、

その向こうに岩戸山古墳、

背景には飛形山と

矢部川が描かれています。」

「筑紫君磐井」(博多人形)

展示室内へ。

入口正面に安置された

磐井の権威の象徴、

「超大型の石盾」。

「郷土の英雄 筑紫君磐井」

以下、要約です。

「西暦527年に起きた「磐井の乱」。

ヤマト王権は天皇を頂点とした

統一国家を望んでおり、

乱は不可避であった。

磐井が真に望んだことは、

「地方の地方による統治」。

これを実現させるため、

避けて通れなかった戦い、

それが「磐井の乱」だったのでは

ないでしょうか。」

展示室全景。

ここからは、

展示・パネルなどの解説を

超訳します。

北部九州の兵站基地化、

軍事基地化計画。

熊本の「火君」を強制移住的に

北部九州へと追いやるのは、

征服した蝦夷を遠国に移住させた

やり方と同じですね。

(こちらが先だが・・)

「日本書紀には、

磐井の乱後、

150年ほど経過した時点でも

筑紫君は存続し、

その影響力を行使したことが

記されている。」

ここからは岩戸山古墳から出土した

石像物の展示です。

「刀を帯びゆぎを負う石人」

「石刀(せきとう)」

ゆぎを負う石人」

「武装石人」

「武装石人頭部」

「石馬」

「石馬」

「石盾」

「石盾」

「石靫」

「立花山古墳群」のパネルと出土品。

「凝灰岩の生い立ち」と石像の物展示。

「九州結束の証し」

「5世紀前半頃、

初代筑紫君と思われる石人山古墳の

被葬者は石人に象徴的な意味合いを見出し、

同族結束の証として石人を用い、

視覚的にも結束を再認識することを

目的として古墳祭祀に

採用したものと考えられます。

石人、石馬は筑紫君一族のシンボルであり、

有明海沿岸を拠点とする豪族たちの

シンボルでもあったのでしょう。」

地図で見ると、福岡県南部から

熊本県北部に集中していますね。

これが「勢力範囲」だったのかも

知れません。

「ナゼ、岩戸山古墳に多いのか?」

「各地には特定の種類しかない

石人や盾なども

岩戸山古墳では全種類を多量に有しており

これは各地の首長を束ねる

強大な政治権力を保持していたことを

物語っています。」

「朝鮮半島争奪戦」

「大陸の文化・情報を百済から

一元的に受けていたヤマト王権は

対新羅を目的とした

軍事支援を行なっていました。

百済支援と生命線である

鉄の入手ルート確保に全力を注ぐため

地方支配の仕組みづくりを

急いでいました。」

「筑紫君の命をかけた一戦」

磐井の乱のお話です。

「岩戸山古墳」

「筑紫君「磐井」が築造し、

全長170m以上、

墳丘長約135mの大型前方後円墳で、

北部九州最大の古墳と言われています。

石人・石馬が多数つくられ、

ヤマト王権が推進した

埴輪を立てる文化との差を

強調したかのように樹立していました。」

なるほど!

埴輪と石人・石馬の対比、

分かりやすい解説ですね。

ヤマト王権による「破壊」も

見られませんし、

磐井の乱後も、

文化的には一定の独自性を

維持できていたということでしょう。

「文献が記す、異なる2つの結末」

「磐井の乱の結末、

日本書紀では磐井は斬られ

反乱は鎮圧と記され、

筑前国風土記の逸文では、

豊前国の山深い地に逃れた、

と記しています。

「磐井を生かしておきたい」という

郷土の人たちの想いがあったのでしょう。」

源義経は北海道に行き、

後にジンギスカンになったとか、

豊臣秀頼は鹿児島に逃れて

生きていたとか、

そんな類の話はよくありますので、

磐井もその一つかも知れません。

「最大のライバル!」

「継体天皇が眠る今城塚いましろづか古墳。

平成10年には墳丘で

熊本県宇土市産凝灰岩の

石棺材が発見され、

磐井の乱後も火君と大王家との関係が

続いていたことがわかります。」

この今城塚古墳、

大阪府高槻市にあり、

一昨年、石清水八幡宮に参拝した時、

近くを通ったものの時間がなく、

訪問を諦めた古墳ですが、

まさか、

ここで名前が出るとは驚きです。

しかも石棺は「メイドイン熊本」とは、

今城塚古墳、

やはり行かねばなりません(笑)

(続く)

 

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