唐沢山城・唐沢山神社(高石垣)
「跡」
日本の城は全部現役ではないので、
曲輪なども「城跡」になるのでしょうが、
お城によって、
「本丸跡」など「跡」と表記したり、
ただ「本丸」としたり、
「跡」無しだったりと、
明確に統一はされていません。
唐沢山城内での案内の多くは
「跡」が付いているタイプですが、
そうでないものもあり、
他のお城でも整合性はそれほど
ありません・・・
「跡」を付けるかつけないか、
みんな迷っているのかな?(笑)
本丸西虎口石垣
唐澤山神社の本殿が鎮座する本丸から
西虎口を通り、二の丸方面へと向かいます。

本丸側の虎口。
ここで妻が
「富士山みたい!」
そう言って指差したのが
こちらです・・・

なるほど!
石垣の上に残った木の幹ですが、
言われてみれば、
富士山に見えなくもないような?(笑)

虎口を出て本丸方面を撮影。
右側の石垣に組み込まれた鏡石、
目を見張る大きさですね!

素朴な石垣と鏡石のアップ。
戦国時代における関東の城で
石垣をここまで
こだわって使った城は、
そんなに多くはないでしょう。

虎口左側の石垣は養生中とのことで、
その姿を見る事は叶いませんが、
観覧者向けには、
こんなものが設置されています。

写真!!
これがあるだけでも
実に有難いことですよ!
こちらも向かって右側同様、
巨大な鏡石が使われていることが、
よく分かります。

「二の丸から見上げた本丸」
「右手の虎口(出入口)から
二の丸に入ると、
頭上には本丸の櫓や城門などがそびえる。
二の丸から本丸へ上る通路は、
かつては鉤の手に折れていた様子を
描く絵図も残る。
また、本丸の虎口には
見る者を圧倒する巨大な鏡石が
据えられている。」
このように記されています。
権威の象徴であった「鏡石」、
ここを来訪した他家の武将を
ビビらせまくったかも知れませんね!
二の丸
次に二の丸へ。

引局(武者詰)と呼ばれる曲輪を背に、
二の丸入口を撮影。

「二の丸跡」
「奥御殿直番の詰所があったとされ、
本丸への大手虎口の守りを固めた曲輪。
「追手馬出」と記された
古地図も残されている。」
このように記されています。

案内で「追手馬出」と
書かれているように
確かにここは本丸に対しての
巨大な馬出とも言えそうな曲輪です。

二の丸の西端にあるお堂。
これが何なのかは不明ですが、
僕たちの注目は左奥に見える
顔出しパネルです(笑)

やはりここは藤原秀郷と龍神様のお社、
こりゃ〜テンション上がるわ〜!
下からのぞいた妻の足先、
間隔がめっちゃありますね(笑)
どんな格好で顔出していたんだろう?
このパネル、目立たなく、
ここにひっそり置かれている意味は、
いったい何故でしょうか・・
出会える人だけが、
出会える顔出しパネル・・
そんな主旨もあるのかな?(笑)
高石垣
ここからは唐沢山城のクライマックス、
本丸を支える高石垣へ。

虎口の鏡石と高石垣。

戦国時代真っ只中を想起させる
素朴な野面積みの石垣。

圧巻の高石垣、
この古さがたまらんな〜!

200m近く続いているでしょうか?

回れ右して二の丸方面を向いて撮影。

やはり正面からが、
一番カッコいいかな?
三の丸
高石垣から下って三の丸へ。

案内。
「どちらからでも」に
思わずほっこり!
とっても親切な書き方です。

「三の丸跡」
以下、案内です。
「本城では大きな曲輪で、
かつては賓客の応接間があったとされる。
周囲には高く急な切岸が巡り、
部分的に石垣も認められる。」

白線が館の跡を示しているのかな?

曲輪の一番奥にある
「人形供養塔」。

平成二十九年に建立され、
「佐野人形感謝祭」と言う、
人形供養事業が行われているようで、
佐野市は人形でも有名なのかと
調べると佐野市のサイトには
以下の紹介がありました。
「例幣使街道の宿場町として栄えた
佐野には、東照宮造営で
全国から集まった職人たちが住み着き、
人形を作ったことが
始まりといわれています。
その技術によって作られた衣裳着雛は、
栃木県の伝統工芸品に指定されています。」
大きな事業を行う事の効能は、
その技術が各所に波及し、
業界全体の底上げに繋がるという事、
家光さんの日光東照宮建て替えは、
こんな所にも、
恩恵をもたらしていたのですね!
白藤棚
参道へ戻ります。

奥に見えるのが、
参道横の白藤棚です。

5月ごろには、
ここを白藤が埋め尽くすのでしょう・・

藤棚&妻。
どっちも緑色で同化しています(笑)
帯曲輪
さらに参道を下ります。

右に曲輪らしきものが・・・

ここは三の丸の下に位置する、
帯曲輪と呼ばれている場所です。
唐澤山神社、唐沢山城の散策は、
ここまでで完了し、
日没迫る中、
真田親子の別れの場所、
犬伏を目指します。