二本松城(福島県)本丸・天守台
0よりも1
時間がない上に
雨模様という素敵な(笑)条件で、
山上の本丸・天守台まで、
駆け上がり、駆け降りた二本松城、
当然じっくりなんて見ていませんが、
やはり0よりも1、
体を鍛えると共に(笑)
大いに楽しませて頂きました。
本丸下南面大石垣
二本松少年隊群像、箕輪門と巡り、
次なるクライマックスは、
蒲生氏郷時代に積まれた、
本丸下の大石垣です。
煙硝櫓方面へ。
僕たちが駆け上がる為に、
設られた登城路。
このお陰で、
体力温存作戦は大成功(笑)
途中、アジサイの向こうに
本丸石垣が見え、
いきなりテンション上がる僕たち。
今でも湧水を溜めている
「日影の井戸」
奈良県吉野から
勧請されたのでしょうか、
水の神様でもある
天河大弁財天が祭られています。
もうすぐ・・
「本丸下南面大石垣」に到着。
案内には、
「二本松城に築かれた、
最も古い石垣のひとつです。
築石は野面石(自然石)と
荒割石が用いられ、
その積み方は古式の
「穴太積み」と呼ばれる特徴的な
石のデザイン・テクニックです。
大小の石材をレンガを
ねかせるように横積みし、
数石しか`横目地`の通らない、
いわゆる「布積み崩し」の積み方です。
勾配は、直線的で緩やかな
「ノリ(法)」を主体に構築されています。
天端付近は積み直された形跡があり、
本来はさらに数段高い
石垣であったと考えられます。
二本松城が
会津領の支城となった慶長初期頃、
蒲生氏郷に抱えられた
城郭石積み技術集団「穴太衆」によって
築かれた石垣です。」
このように記されています。
度重なる改修にも関わらず、
400年以上もよく残っていたものですね。
40年の短い人生を駆け抜けた
蒲生氏郷の生きた証、
しっかりと見届けましたよ!
大石垣下から本丸を望む。
本丸・天守台
ここからは本丸・天守台へ。
蔵屋敷を通過。
最後の石段。
現在地を確認。
登城路の各所に配置された
このコンパクトな案内図は、
お城全体の縄張りと、
自分の位置が手軽に理解できる
優れものです。
遂に到着!
石垣の発掘・調査、
修復・復元方法などが事細かに説明され、
石垣マニアにはたまらないはず。
平面図の1面〜13面まで、
各面の石垣が積まれた時期により
それぞれ工法も変えているのが、
二本松城のこだわりポイント。
にほんまつ城報館もそうでしたが、
この城跡も「二本松城愛」が
ギュッと詰まっていますね!
東櫓台(左手前)は寛永期、
右奥の天守石垣は、
江戸後半期の積み方です。
ここの積み方は江戸後半期。
枡形虎口へ。
ここに入ったら
めった撃ち・・される?
東櫓からも集中攻撃を
仕掛けられますが、
ここまで敵兵が来たら
もはや落城しかないかな・・
実際に落城しているし・・・
本丸内部。
天守台前の供養碑。
「丹羽和左衛門・安部井又之丞 自尽の碑」
以下、案内です。
「慶応4年(1868)7月29日、
戊辰戦争で二本松城が落城するときに、
「切腹」した2名の藩士、
丹羽和左衛門(66歳 城代)と
安部井又之丞(65歳 勘定奉行)の
供養碑です。
和左衛門の「切腹」の様子は、
床几(イス)の腰をおろし、
「軍扇」を膝の上に広げ割腹し、
その後内臓を自分で
「軍扇」の上につかみ出し、
前屈みになって絶命した、
と伝えられています。」
城代という役目の重さ、
改めて感じます・・・
そして、
参拝を終え、天守台へ。
到着。
二本松の象徴、
安達太良山も見えていますね!
この円形地図もいい仕事しています。
あの安達太良山から水路を引いて、
「二合田用水」と呼ばれる
全長18Kmにも及ぶ用水路を造り、
二本松城まで通した
丹羽光重さんの偉業に
あらてめて思いを馳せます・・
東側の景色・・だったか?(笑)
天守台から見た二本松市街。
安達太良山バックでツーショット完了。
次に東櫓台へ。
ここからの方が近い分、
二本松市街はよく見えます。
東櫓台から天守台と
安達太良山のコラボを撮影。
ここまでで、本丸散策は完了、
次なるミッションは、
一刻も早く山を掛け降りる事(汗)
途中コケることもなく、
無事、
にほんまつ城報館に到着。
この後は、この旅最後の訪問地、
丹羽家の菩提寺・大隣寺で、
二本松少年隊のお墓への参拝ですが、
果たして閉門時間に間に合うのか否か・・
今日の自動販売機
二本松は菊の名産地。
「菊のまち二本松」
全世界が相手のようです!