素盞嗚神社(2019年福山の旅)
中世建造物の宝庫
素盞嗚(すさのお)神社は、
江戸時代の建物が、
いくつもある神社です。
神社そのものとして建てられた、
本殿や鳥居などはもちろん、
神社南側にある相方(さがた)城の城門も
移築されているというから
お城ファン、神社ファンの僕には必見です。
また、事前の情報とは別に、
いくつかのサプライズもあったりと
旅の最後に参拝したのが
嘘のように元気いっぱいに
散策できました・・・
しかし、
妻は、疲れていたかも?ですが(笑)
相方城移築の城門(北門)
相方城の移築北門は、
素盞嗚神社の西側駐車場の
すぐ横にあります。
石垣や石橋も古くていい感じです。
城門としての北門で、
素盞嗚神社で言えば、
北西に位置しています。
門をくぐって反対からも撮影。
相方城移築の城門(中門)
北門と同じく、旧山陽道沿いにあるのが、
相方城の移築中門です。
案内によると、北門にくらべ、
保存状態が良く、
16世紀末~17世紀始めの
建築と推定されるそうです。
関ヶ原の戦い(1600年)以前の
城門は、ここと島根県の益田市のみに
存在するそうで、そちらにも
行ってみたくなりました。
調べてみたら医光寺というお寺の
総門として、益田氏の居城だった
七尾城の大手門が移築されています。
中門(表)
アップ。
屋根裏。
木の古さがよくわかる写真。
御朱印
相方城の門を見学した後、
すぐに御朱印をいただくため
社務所を訪ねました。
社務所は午後5時や、
4時半に閉まる場合が多いので、
夕方神社を参拝するときは、
参拝前に行っておくのが正解です。
表参道
相方城の門を堪能した後は、
改めて正面から参拝へと向かいます。
元禄七年と刻まれた鳥居。
何と、西暦1694年の建立です。
御由緒。
本殿の御祭神は、
素盞嗚尊、奇稲田姫、八王子。
祇園祭についての案内。
お釈迦様が修行された
「祇園精舎」を護る
牛頭天王(ごずてんのう)と
素盞嗚尊を共に祭る信仰で、
ここ素盞嗚神社が、
その祇園祭発祥の地だと書かれています。
まさに神仏習合の地ですね。
注連縄柱には
「武運長久」「八紘一宇」の文字。
文政三年(1820年)建立の狛犬。
吽形。
随神門。
正面少し左に見える木は、
樹齢300年と言われるイチョウですが、
訪問時にはこのイチョウの存在に気づかず、
単独の写真を撮り忘れてしまいました。
見るものを欲張ると、こうなりますね(笑)
手水舎。
お~!!
装飾が凝っていて凄いですよ、
この鉄製の手水鉢。
珍しいものだな~と見ていたら、
その台座にこんなものを発見。
餓鬼(がき)。
手水鉢の四方を色んな表情の
餓鬼たちが支えています。
明治時代に奉納されたものなので、
この重い手水鉢を100年以上、
文句も言わずじっと支えている
餓鬼たちに大拍手です。
これから100年も頑張ってネ(笑)
神楽殿
拝殿の前には神楽殿があります。
祇園祭では3基の神輿が、
ここに置かれるようです。
拝殿・本殿
瓦葺きの拝殿。
車椅子用のスロープもあります。
左が拝殿、右が本殿。
本殿は四方に千木、鰹木がある
珍しいデザインですね。
Wikipediaによれば、
本殿は福山初代藩主、
水野勝成の再建というから
400年近く経っているのでしょうか・・
やっぱりこの檜皮葺の屋根、
いいですね!
本殿後ろ側。
右側に物入れのようなものがあります。
何でしょうか?
拝殿前にて。
蘇民神社 疱瘡神社
境内社の二つです。
Wikipediaによると、
『備後国風土記』逸文の
「蘇民将来」説話に
「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのが
当社(素盞嗚神社)とされるが、
本来は摂社である
「蘇民神社・疱瘡神社」で
あるとする説もある。
と書かれていますので、
ここは重要なお社かと思います。
茅の輪くぐり神事の由来は、
有名な「蘇民将来」のお話で、
ここが発祥の地とされています。
戸手天満宮(本地堂)
ここは明治初期の神仏分離令で
神社として生き残ったお寺です。
デザインはまさにお寺ですね。
本地仏があった本地堂。
案内によると
本地堂が残る神社は、全国でも
20例ほどで、広島県には2例、
祇園社では当社のみとなっています。
神社としての名前は、
戸手天満宮。
1748年の再建で、
福山市の重要文化財に
指定されています。
参拝。
扁額の文字は、
明治時代の出雲大社の宮司、
千家尊福(せんげたかとみ)謹書です。
以前、福岡県の添田神社のブログでも
書きましたが、この方、
「と~しの は~じめの♪・・・」
というフレーズなら誰でも知っている
お正月の定番ソング「一月一日」の
作詞者でもあります。
ちなみに千家尊福氏の長男は詩人ですから
多分、お父様の血を引いたのでしょうね。
ここで、福山での観光、
参拝と散策は全て完了です。