多賀城(宮城県多賀城市)政庁跡

完結
日本三大史跡は、
宮城の多賀城跡と言われ、
それぞれが国の特別史跡となっています。
いずれも教科書に載るほどの
超有名どころですが、
はからずも僕たちは、
ここ多賀城で
日本三大史跡の訪問を
完結する事となったのです!
めでたしめでたし(笑)
政庁跡
城前地区を巡り、政庁跡へ。
政庁に続く石段。
一旦振り返って撮影。
左の城前地区、
南大路突き当たりの南門、
右側に見える湿地帯と、
奈良時代と同じ風景が広がっています。
ズームしてまたもや南門を撮影(笑)
そして政庁跡に到着。
全景。
ここでの注目はこちらです。
立体ジオラマ。
太くて頑丈な鉄の柵に囲まれて、
警戒厳重ですが、
過去に何か問題があったのでしょうか・・
第II期(8世紀後半)の姿を
推定復元したものと記されています。
細部にこだわった再現がされていて、
見応えありますね!
立体ジオラマの手前に配置された、
政庁の建物配置と変遷。
「第I期」
「神亀元(724)年
大野東人により多賀城が創建される」
「建物はすべて掘立式で、
屋根は瓦葺き」
「第 II期」
「天平宝字6(762)年
藤原朝獦により
多賀城の大改修が行われる。」
「建物はすべて礎石式・瓦葺に
建て替えられます。
伊治公呰麻呂の乱で焼失しました。
現地では最も荘厳であった
この時期の姿を表示しています。」
「第III期」
「宝亀11(780)年
伊治公呰麻呂による焼き討ち後に再建。」
「火災後に同じく
礎石式・瓦葺で再建されました。
貞観11年(869)年の
大地震で被害を受けます。」
Wikipediaによると
伊治公呰麻呂は朝廷に帰順した蝦夷で、
和人(朝廷側の人)から
「バカにされまくった」事が、
乱を引き起こした原因のようで、
この乱をきっかけに
政権側は本格的な蝦夷討伐を開始、
延暦21(802)年の
坂上田村麻呂の胆沢城築城、
阿弖流為らの降伏へと繋がります。
人をバカにし続けると、
堪忍袋の緒が切れた時には、
大変な事になるんですよ・・
今も昔も(汗)
「第IV期」
「貞観11年(869)年
陸奥国大地震被災後の復興」
「震災復興では主に
瓦の葺き替えが行われました。
その後、
新たに北方建物がつくられます。」
「政庁南門跡」
案内。
「ここには、
政庁の南正面の門がありました。
奈良時代後半の第 II期は礎石式で、
東西には門を飾るために
翼廊が取り付いていました。」
今は礎石のみ・・
ではなく・・
VRでの際限があります!
この立派な門も
建立から18年ほどで
焼け落ちたのですね・・・
政庁正殿跡へ。
案内。
「政庁の中心となる建物の跡です。
礎石式の四面廂付建物で、
その南は石敷の広場となっていました。」
基壇の復元表示。
基壇上から東側を撮影。
左が東楼、右側が東脇殿です。
東脇殿の基壇。
案内。
「政庁東門の位置につくられた、
第 II期に特徴的な建物です。
築地塀を飾った建物であったと
考えられています。」
東楼の基壇。
そして対になる西楼と西脇殿は
気力がなくなり(笑)割愛しています。
残るイベントはあと一つ・・・
多賀城南門とともにツーショット(笑)
今日の自動販売機
帰りがけに駐車場で見つけた自動販売機、
よくある「ご当地自販機」でしたが、
図柄がめっちゃマニアックなのです!
多賀城を散策したからこそ
この写真がどこだか分かりますが、
今から散策に向かう人には、
ちょっと謎かも知れませんね。
正解はこちらです・・多分(汗)
政庁跡へ向かう最後の階段です。
なかなか渋いな〜自動販売機(笑)
Comment
多賀城跡。前前奥様と訪ねた思い出。22.3歳だったか。再現模型に、なぜか、興醒めした覚えがあります。久しぶりにのぞくと、未だ、陸奥編。相変わらずの凄まじサッ!!!
源能直様
コメントありがとうございます。
再現模型、かなり以前からあるのですね。
源能直様と同じ空間を共有できたこと
大変光栄です!