天寧寺(会津若松市)近藤勇の墓

 

選と撰

「しんせんぐみ」は、

新選組と書くのか、

それとも新撰組なのか?

実は二つとも使用されていたそうで、

印鑑は「新選組」だった事もあり、

近年は「新選組」と書かれる場合が

多いようです。

(Wikipediaによる)

そんな「選」と「撰」、

天寧寺での案内表記は・・

どっちもありました(笑)

名前って大変だ〜!

近藤勇の墓へ

戊辰戦争で責任を負って刑死した

家老、萱野権兵衛の墓に参拝後、

天寧寺の「推し」(笑)、

新選組局長、近藤勇のお墓へ。

「近藤勇之墓」と書かれた案内に従い、

まずは少し登ります。

分岐もなんのその(笑)

近藤さんのお墓案内は、

至れり尽くせりで、

権兵衛さんみたく

迷うことは全くありません。

最終案内の先がお墓です。

近藤勇&土方歳三

権兵衛さんのついでに行ってみよう的な

近藤さんのお墓参りでしたが、

新選組が会津藩直轄の組織として

発足していたことなど、

会津との関わりを知り、

一気に親近感が湧いて来ました(笑)

参道。

案内を超訳すると

以下になります。

「近藤勇は剣術の達人で、

天保五年十月九日、

現在の東京都調布市に生まれた。

その後、新撰組として活動、

池田屋事件などに関わる。

その後、鳥羽伏見の戦いで敗走、

海路江戸に終結し、

勝沼の戦いで再び敗北、

その後、土佐藩に捕らわれ

辞世二句を遺して斬首された。

会津藩直属であった新選組組長の首が

松平容保公の居城の地に、

副長土方歳三の手によって

建墓された首塚と伝えられている。」

近藤勇の二つの辞世句碑。

以下、

Wikipediaに掲載された

書き下し文です。

「孤軍援(たす)け絶えて俘囚となる

顧みて君恩を思へば涙更に流る

一片の丹衷能(よ)く節に殉ず

睢陽は千古是れ吾が儔(ともがら)」

「他に靡き今日復(ま)た何をか言はん

義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所

快く受けん電光三尺の剣

只に一死をもって君恩に報いん」

二句共に「君恩」との表現があります。

「君」とは、

松平容保公を思った事なのでしょう・・

「血梅」(ちばい)。

訪問時は何のことか

分かりませんでしたが、

ハッケン!ジャパン」という

サイトによると

「血梅とは花びらの小さい原種に近い梅で、

新選組になるはるか前の近藤さんが、

知人の石坂さん宅の血梅を激賞した折、

石坂さんが後日接木でも送りますと

約束を交わしたものの

その後、近藤さんは斬首、

石坂さんも日光東照宮を

官軍に引き渡した責任を負い切腹、

結局約束は果たせなかった。

血梅はその後、空襲で焼けるものの

また芽吹いて、人の手を渡り、

令和4年、ここに植樹され、

ようやく約束は果たされた。」

このように記されています。

土方歳三の慰霊碑(左)と

近藤勇の墓。

近藤さんに参拝。

戒名は、

「貫天院殿純忠誠義大居士」。

忠誠義士・・

そして、

松平容保公の神霊号は「忠誠霊神」。

「忠誠」友達でもあります。

側面には命日などが刻まれています。

賽銭入れの前には、

「誠」の木札が・・・

これはグッと来ますな〜・・・

そして賽銭泥棒もいないこのお寺には

ホットしますな〜(笑)

次にお隣、

土方歳三の慰霊碑を参拝。

命日などが記された右側面。

左側面。

「新撰組副局長土方歳三義豊は

流山で近藤に決別し、

會津に向かう。

天寧寺に宿泊、近藤の斬首を知り、

戒名の書写を松平容保公に依頼、

此の地に墓標を建立し、

のちに北海道函館一本木附近にて

被弾壮烈なる戦死をとぐ。」

このように記されています。

そして、

近藤さんと土方さんが

仲良く並んで眺めている景色は・・・

会津若松の町並みです・・

目を凝らして見ると、

小さくですが、

鶴ヶ城も見えているんですね!

ズームで撮った鶴ヶ城の天守です。

近藤さんのお墓、

天寧寺の一等地じゃないですか!

どうか

安らかにお眠りください・・

 

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