鳥海柵(岩手県金ケ崎町)原添下区域

 

きっかけは地元福岡

鳥海柵とのみのさくの城主であり、

前九年合戦で降伏し

筑前国(福岡県)の大島に流され

そこで生涯を終えた安倍宗任あべのむねとう

福岡に住む僕たちは、

以前、大島の安倍宗任のお墓に参り、

いつかは安倍宗任にまつわる所に

行きたいものだと考えていました。

こちらが大島にあるお墓です。

今、改めて戒名を確認すると

「殿海」とありますね!

これは間違いなく

「鳥海」の「とのみ」でしょう。

鳥海柵に行ったことで、

過去の旅がより深いものになり、

新たな息吹が吹き込まれました!

話は戻って、

岩手の旅計画では、

阿弖流為(アテルイ)の痕跡を求め、

胆沢城への訪問が主目的でしたが、

何気にGoogleマップを見ると、

胆沢城のすぐ近くに、

「鳥海柵跡」とあり、

調べるとそこは前九年合戦の遺構で、

安倍宗任が居城した

場所であることを知ったのです。

これも何かのご縁と喜び勇んで、

訪問することに。

お墓の安倍宗任さん、

戒名の意味も教えたくて、

僕たちを呼んでくれたに違いありません!

パンフレット

まずはパンフレットで、

概略を確認し、

要約・抜粋してみます。

前九年合戦後、

囚われの身となった安倍宗任に対し、

都の貴族が、

東北の蝦夷(野蛮人)は、

花の名前など知るまいと

梅の枝を差し出し、

「この花の名前、分かるか?」

と聞いた時、

「我が国の梅の花とは見つれとも

大宮人は如何言うらん」

宗任は、こう歌で返し、

都びとは驚いたといいます。

また、この500年後、

同じ東北人の伊達政宗が上洛した折、

都の貴族から桜の花を見せられ、

「これ、何て花か分かるか?」

とバカにされた時に詠んだのが、

「都人 梅に懲りずに 桜かな」です。

これも胸のすく歌ですね!

「お前ら、大先輩の宗任さんでも懲りずに

また恥をかくのかよ!(頭悪くね?)」

こんな意味でしょう。

しかし、

住んでる場所で貴賤を決めつける風潮、

今も昔も変わらないかも知れません(汗)

「安倍一族」

「10世紀後半になると、

胆沢城(奥州市)の律令体制は崩れ、

胆沢城の在庁官人であった

安倍氏が力を持つようになり、

安倍頼良は「六箇郡(奥六郡)の司」

と呼ばれるほどに力を持ち、

北上川上流に12の柵(城・館)を置いて

奥六郡を支配しました。」

朝廷からして、

遠隔地の支配というのは、

なかなか難しかったのかな?

「前九年合戦」

「前九年合戦は、永承6年(1051)から

康平5年(1062)にかけて

東北地方であった安倍氏一族と

朝廷から派遣された

源頼義・義家父子ら官軍との戦いです。

胆沢城が奥六郡を、

多賀城が奥六郡より

南の領域を管轄していたが、

安倍氏が勢力を

多賀城の管轄領内まで広げた結果、

永承6年に鬼切部の戦いが起こり

安倍氏は陸奥守・藤原朝臣登任ら

国府軍に大勝しました。

その後、源頼義は

陸奥守兼鎮守府将軍に任命され、

安倍氏と戦い、

出羽地方の豪族・清原氏の加勢もあり、

安倍氏は厨川柵で滅びました。」

「鳥海柵跡」

「鳥海柵は、平安時代の

前九年合戦を記した軍記物語

「陸奥話記」に登場する

安倍氏一族の柵(城)の一つです。

鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」では

鳥海三郎宗任とのみさぶろうむねとう(安倍氏当主・頼良の三男)の

柵とされます。

「陸奥話記」には、

鳥海柵は安倍頼良が亡くなった地で、

清原氏の加勢で

柵に入ることが出来た源頼義が

「なかなか姿を見ることが出来なかった

鳥海柵に入ることができた」と

感激したと記されています。」

戦国期の城でいえば

連廓式平山城になるのかな?

縦に並んだ四つの曲輪は

沢(堀切)で区画されています。

縦街道南区域

金ケ崎要害資料館から車で5分、

鳥海柵に到着です。

梅の花に心打たれますな〜(笑)

駐車場の案内もあり難し!

「国指定史跡 鳥海柵跡」

柵の造りについての部分を抜粋します。

「北上川と胆沢川に囲まれ、

自然の沢による谷(開析谷)や

段丘崖を巧みに利用し、

人工の堀や柵列などの工作物で囲まれた中に

大型の四面廂付建物、櫓状の建物など

複数の建物に配置した

防御性のある軍事的な拠点です。」

ここから散策開始。

案内にあった四面廂付建物を

平面復元してあり

「東西2間、南北3間の

4面に廂が付く大型の建物」

に当たるものだと思われます。

ここが縦街道南区域と原添下区域を区切る

「沢」の部分でしょう・・多分(笑)

原添下区域

沢跡を横切り原添下区域へ。

奥にも平面復元遺構が見えますが、

その前になんか案内が立っています。

これは!(汗)

でも見えてる遺構は気になるし、

立ち入り禁止ではないので、

行ってみることに。

こちらにも先ほどと

同規模の建物跡があります。

Uターンし、

すぐにツーショットを完了。

ここから一旦入口に戻り、

大堀切で遮断された

鳥海区域へと向かいます。

 

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