鶴岡護國神社(鶴ヶ岡城)

 

殿様の御霊屋

藩主酒井家の菩提寺である、

大督寺の墓所には墓石のみが建てられ、

御霊屋おたまやはありません。

しかし、

鶴岡護國神社の案内には、

「現在の御社殿は、酒井家十代、

酒井忠器ただかた公の御霊屋を移設したもの」

このように書かれています。

東京、増上寺の徳川秀忠はじめ

歴代将軍の御霊屋は、

米軍の空襲で焼失していますので、

もしかすると酒井家代々の御霊屋も

何らかの原因で、焼失または

破却されたのかも知れません。

そう考えると、

僕たちは御英霊とともに、

江戸時代の貴重な遺産も

拝ませていただいた事になります。

善政で領民に慕われた庄内藩主、

その殿様の御霊屋で、

魂を抱かれる殉難者の方々。

きっと大きな安らぎを

得られていることでしょう・・

参道

荘内神社を参拝後、

お隣の鶴岡護國神社へ。

日露戦争戦勝記念に

植樹された参道の桜並木。

幹の風格から

120年の樹齢を感じるものの

枝葉は青春真っ只中(笑)

ずっと長生きして欲しいものです。

ここは鶴ヶ岡城御金蔵址。

「金蔵」の響きだけで、

何だかご利益いただいた気分に(笑)

鳥居前。

忠魂碑に参拝。

御社殿前の参道。

ここで思わぬものを発見!

「永久平和の先駆

石原莞爾生誕の地」

この方は陸軍の軍人で、

満州事変の首謀者でありながら

東京裁判では被告人とならず、

山形での証人尋問では、

「戦争の引き金は、

平和な日本を弱肉強食の

西洋世界に巻き込んだペリーであり、

最大の戦争犯罪者は

原爆を落としたトルーマンだ」

このような発言をして

連合国の裁判官たちを狼狽させています。

鎖国で260年もの長い間、

平和を維持していた日本は、

明治維新後、欧米列強から

覇者になるか、

それとも奴隷になるかという

「中立は許されない」

究極の選択を突き付けられ、

国家存亡を賭け

戦うしか無かったのですからね・・

そして、もう一つ

小さな石碑があります。

「旅順爾霊山にれいさん松」と刻まれ、

傍には、小さな松の苗木が

植えられています。

石碑には昭和七年九月と

刻まれていますので、

現在の苗木は慰霊の松の

二代目かも知れません。

Wikipediaによると

乃木希典大将が、

戦没した日露双方の兵士を慰霊した

漢詩に旅順要塞攻撃での

203高地を「爾霊山」と

詠んだことで、

この名前が付けられたそうで、

いかにも人情家の

乃木大将らしいですね・・

203高地の頂上には、

現在でもこのような

忠霊塔が残っているようです。

(画像はWikipediaより引用)

御社殿

雨がポツポツ降って来た中、

御社殿へと向かいます。

参拝。

宮司さんの苗字も「石原」さんですね!

爾霊山の松を奉納した人も

「石原」さんでしたが、

もしかすると石原莞爾とは、

ご親戚なのかも知れません。

そして、

回縁を見ると・・

こんなものまで準備されているとは!

あり難し!

御由緒には、

「戊辰の役・西南の役に殉じた

藩士の御霊をお祀りするため、

酒井家13代忠篤ただずみ公が創建」

このように記されています。

本殿に参拝。

脇には「招魂社」の標柱も

残っていますね。

本殿と拝殿。

御霊屋の形が良くわかります。

お城の土塀然とした玉垣には、

狭間も設けれ、

僕も妻もテンション爆上がりに(笑)

明治天皇もここに来られていました。

土砂降りになって来たので、

手水舎の軒下でツーショット。

これにて参拝は完了です。

 

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