蒼柴神社(新潟県長岡市)中編
蒼柴大明神
蒼柴神社の御祭神である
牧野忠辰公の神号は「蒼柴大明神」。
これについて、
御由緒板に詳しく案内されています。
「御祭神 牧野忠辰命 八重事代主命
合祀神 天照大神 白山比咩神」
案内を抜粋すると、
「長岡藩三代忠辰は、
牧野家中興の祖と仰がれた英主であるが、
四代忠寿(ただかず)は
先君の人格、学識、功績を称え、
その志を継がんと享保七年
(1722)長岡城本丸(現長岡駅)に
一社を造営し、その霊を祀った。
その折、忠辰が最も崇敬された
八重事代主神(えびす神)の
蒼柴神籬(あおふしがき)に
おこもりになった国譲りの神事
(日本書紀)にちなみ
京都吉田神社神祇官より
蒼柴霊神(あおしれいじん)の
神号が贈られた。
明和六年(1769)
九代藩主忠精(ただきよ)は
御祭神ゆかりの植林地(杉・松・桜)が
神威としてふさわしく、
清浄の地と定め社殿造営を開始。
天明元年(1781)
長岡城内より御遷座し、
神祇官より新たに
蒼柴大明神の神号を賜った。」
このように書かれています。
日本神話における「国譲り」とは、
大国主命が天照大神に
日本という国をそっくり
譲った(譲らされた?)事を指しますが、
その時、大国主の弟である
八重事代主(事代主)が
「国譲っていいよ!」
そう言ってくれたので、
国譲りは成立しています。
牧野忠辰公が、八重事代主を崇敬していた
背景には、そんな「寛容の心」
「争わない手法」など難事に臨み、
苦しいながらも丸くおさめた
そんな事柄があったからかも知れんません。
また、
蒼柴神社の木々に覆われた境内は、
何だか、八重事代主がおこもりになった
「蒼柴神籬」を連想させられ、
僕たちにとって、
実に「気の良い」神社でした。
拝殿
蒼柴神社の神門と、
拝殿前及び内部には、
五対十体もの狛犬が安置されています。
参拝前、振り返って神門を撮影。
この両サイドに前編で書いた
「備前焼狛犬」が、
一対目として鎮座しています。
二対目の狛犬。
中国地方でよく見るタイプですが、
関連があるのでしょうか?
吽形。
三対目。
吽形。
拝殿へ。
参拝。
内部の扉には、
藩主牧野家の家紋「三ツ柏」に因んだ、
柏の葉っぱの彫刻が施されています。
奥に掲げられた「蒼柴大明神」の神額。
そして、この両脇に目をやると・・
四対目の狛犬。
実にカラフル!
何だか龍っぽいような?
吽形。
五対目。
こちらはめっちゃ精悍なお顔です。
吽形。
これだけ睨みをきかせれば、
悪者は侵入不可能でしょう(笑)
本殿
次に本殿へ。
拝殿と本殿(覆屋)。
黄金に輝いた本殿覆屋。
「旧長岡藩主牧野家霊廟」の案内。
予備知識が無かったので、
ここに霊廟があるとは、
ビックリです!
本殿近く。
エントランスでは、
こんな方がお出迎え。
本殿を参拝。
覆屋の中には、
天明元年(1781)八月八日に
再建された本殿が鎮座。
緻密な造りと
彫刻が見応え十分です。
側面の唐獅子牡丹の彫刻。
獅子の躍動感、
めっちゃ凄いですね!
牧野家霊廟
本殿右側面に沿って、
長岡藩主牧野家の墓碑が
立ち並んでいます。
墓碑群。
廟所の説明部分を抜粋すると
以下になります。
「牧野家歴代の江戸における墓所は、
三代将軍徳川家光公から賜った地に
初代牧野忠成公が創立した
済海寺(東京都港区)であった。
昭和五十八年寺の事情により、
墓碑十七基はゆかりのある
青柴神社の境内地に墓碑のみを移し、
悠久史蹟保存会はじめ多くの関係者、
市民有志の協賛と奉仕を得、
霊廟として安置した。」
お寺の墓碑が、
神社に移されたという事ですが、
三代藩主が御祭神の蒼柴神社ならば、
これは、英断だったと感じます。
参拝しようとした時、
赤トンボが飛んできて旋回したので、
指を出すと、止まったのです!
なんか、
牧野家藩主様たちから歓迎されたようで、
嬉しくなっていると
今度は、妻のリュックに
着地するではないですか!
赤いリュックだし、
同化して居心地いいのかな?(笑)
立派な宝篋印塔群。
宝篋印塔の向かいには、
李氏朝鮮時代の石人のような
像が並んでいます。
何故にこんな像なのかは不明でが、
Wikipediaによると、
牧野家は朝鮮通信使の接遇をしていたので、
その関係があるのかも知れません。
代表して、
長岡藩2代目藩主、
牧野忠成公(右)と
生母の宝篋印塔に参拝。
ちなみに2代目牧野忠成公は、
初代の牧野忠成公と
全く同じ名前なので、
かなり混同しやすいです(汗)
墓碑群とは少し離れ、
本殿の真裏に建つ
牧野忠辰(ただとき)の墓。
忠辰さんは、蒼柴神社の御祭神なので、
やはり神社参拝の人が、
神様を拝める方向を向いて
建てられているのでしょう。
この後は、
本殿を挟んで反対側の
悠久山招魂社へと向かいます。
(続く)