鍋島直正公銅像(佐賀城一周)

 

トリッキーは家訓?

幕末の佐賀藩は、

義祭同盟などはあったものの、

バリバリの尊王ではなく、

また幕府ベッタリの佐幕でもなく、

言わば終始「曖昧」な立場で、

微妙なバランスを保ちつつ、

明治維新という滑走路へ、

ソフトランディングを成功させた

稀有な外様大名という印象です。

これも全ては、

佐賀藩10代藩主鍋島直正の

トリッキーな立回りあっての事でしょう。

そう言えば、

関ケ原の戦いの時も、

鳥居元忠らの籠る伏見城攻撃に

参加するなどして西軍側で戦うも、

すぐに翻して東軍として、

立花宗茂の柳川城を落し、

黒田長政を通じて家康に謝罪し、

領国安堵を得ていますので、

もしかするとこのトリッキーさは

先祖伝来のもので、

「藩主は冷静な判断で

最終的な勝利者を見極めよ!」

みたいな家訓が

あったのかも知れません(笑)

鯱の門

歴史寸劇江藤新平の展示を見た後、

鍋島直正公の銅像へ。

佐賀城本丸歴史館を出て鯱の門へ。

左が佐賀城本丸歴史館、右が鯱の門。

門前の大砲。

以下、案内です。

「24ポンドカノン砲(複製)」

「佐賀藩10代藩主鍋島直正は、

嘉永3(1850)年、

築地に反射炉を築き、日本で最初の

製鉄製大砲の鋳造に成功しました。

更に幕府から注文された

50門の鉄製大砲を

品川の台場に設置しましたが、

残存例は現在のところ確認されていません。

この大砲は、

1820年頃アメリカで

製造されて幕末に輸入され、

かつて東京都渋谷区の旧鍋島邸に

置かれていたもの

(現在は戸栗美術館所蔵)を原型とする

複製です。」

鯱の門(本丸側)

左端、石垣のハートマーク、

以前僕らも

ツーショット撮った思い出が(笑)

ここは門扉に注目。

佐賀戦争当時の弾痕。

沢山あります。

これは貫通できなかったもの・・かな?

鯱の門は、

天保九年(1838)の建立で、

平和な時代に造られたものなので、

あまり防御に重きを置いていなく、

外観重視のデザインだそうです。

天守もなかった頃なので、

「権威の象徴」としての意味合いも

あったのかもですね。

鍋島直正公銅像

鍋島直正公の銅像は、

戦前に一度建てられていますが、

昭和19年(1944)に金属供出され、

再建されたのは、

平成29年(2017)です。

鯱の門から鍋島直正公銅像へ(左)。

お久しぶりにご対面(笑)

この台座、直正公が建てた

反射炉をかたどっています。

確かに反射炉ですね!

正面。

アップ。

斜め右から。

お顔アップ。

凛々しい後ろ姿。

ここからは案内を確認します。

「鍋島直正公」

以下、抜粋です。

「鍋島正直公は1814年(文化11年)、

第9代藩主斉直公と

鳥取藩主池田家よりの正室幸姫の子として、

江戸桜田の佐賀藩上屋敷で誕生しました。

薩摩藩主の島津斉彬公とは、

生母が姉妹であることから

従兄弟兄弟関係にもあります。

公が名君たるゆえんの一つは、

藩政改革を推進するとともに、

科学技術や郡司・医療などの各分野で、

大きな視野から西洋の新知識・新技術を

摂取したことが挙げられます。

その背景としては、

公の強いリーダーシップのもと、

藩内の統制が取れていたこと、

外国に対する日本の自立や

幕府・諸藩に対する佐賀藩の

独立的な立場を追求したこと、

さらには異文化への探求心や、

困難に打ち克つ強い意志を

持続させた点などが挙げられるでしょう。

薩長土肥の四藩による版籍奉還が行われた

1869年(明治2年)、直政公は

議定、蝦夷地開拓使長官に任命されます。

旧大名家としては最高位の

大納言まで昇進しましたが、惜しくも

1871年(明治4年)1月18日、

病のため数え年58歳で永眠しました。

その功績に対し、同年に正三位、

1900年(明治33年)には

従一位が追贈されました。

1933年(昭和8年)には

直正公を祀る佐嘉神社が創建され、

今もなお同社の御祭神として

市民の崇敬を受けており、

公が生前に愛した景勝地川上に程近い

春日御墓所から佐賀の町を

見守っています。」

ここに記されている

「藩内の統制が取れていたこと]

これってホント凄い事ですよ!

やはり、

強力なリーダーシップというのが、

いかに大切かが分かります。

福岡藩などは、めっちゃ揺らいで、

勤王派の「勤王党」を壊滅させた後は、

戊辰戦争に新政府側として

駆り出されるなど、

右往左往していましたし(汗)

そして、直正公のさらなる凄さは、

こちらのレリーフでも確認できます。

「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」

当時、医療としては発展途上の種痘、

これを大切な嗣子(後継)に

受けさせるということは、

相当な英断で、藩主自らの行動で

医療の大切さを世に示した

一例かと思います。

「鍋島直正公と幕末佐賀藩」

以下、超訳です(笑)

「文政十三年(1830)、

数え年17歳で藩主となり、

その後、30年ほどの治世と

隠居後の10年ほどの約40年間、

常に率先垂範、多くの人材を育成、

幕末の世の中の変化を機敏に読み、

国産大砲の鋳造など国防にも力を注ぎ、

戊辰戦争では佐賀藩の持つ

アームストロング砲で早期決着に導くなど

多岐にわたる活躍で、

明治の新国家建設に

大きく貢献することとなりました。」

めちゃ端折ってます(笑)

ここからはその他のレリーフを確認します。

「佐賀藩製錬方絵図」。

「佐賀藩三重津海軍所絵図」。

夏の暑い日に、

三重津海軍所跡を歩き回り、

クタクタになりながらも

VRを楽しんだことを思い出します(笑)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください