長命寺・戊辰戦争会津藩戦死者之墓
無数に点在
籠城戦が行われた会津若松と
その周辺には
戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓が、
お参りしきれないほどあります。
この日も早朝から夕方まで、
会津藩士の墓参り三昧でしたが、
まだまだ回りきれていません・・
築地塀
長命寺に着いたのが、
午後5時半近くで、
本堂は閉まっているとは思いつつ、
お墓だけでも参ることができればと
ダメもとで行ってみました。
お寺の手前には大きな駐車場があり、
思わぬ歓迎ぶりに
感謝しつつ駐車を完了。
最初の見所は、門横の築地塀。
「史跡 長命寺築地塀」
案内には、
「長命寺は、慶長十年(1605)
蒲生秀行の時代に創建。
その後、
寛文七年(1667)今の地へ移り、
長命寺と名を改め、世襲の寺となった。
寛文年間、
本願寺直轄寺院であったこの寺は、
最高の寺格を示す
白泉の五條の築地塀を許された。
戊辰の役における長命寺の攻防で、
この築地塀には当時の鉄砲弾痕が
無数に残っている。」
このように書かれています。
「五條の白泉」と「弾痕」
後年修復した時にも
弾痕は残していたのでしょう・・
会津藩士達もきっとお喜びだと思います。
弾痕アップ。
戦死墓
本堂参拝前に、まずは戦死墓へ。
本堂への参道を途中で
左に曲がり墓域へ。
「戊辰戦役
会津藩士戦死者之墓
この先45m、右」
親切な案内にホッとします!
参道入口。
まずは案内碑を確認。
文章を書き出すと、
以下になります。
「戊辰戦争中の慶応4年
(1868)8月29日、
ここ長命寺付近で大激戦となり
会津藩側に多くの戦死者が出ました。
9月22日の会津藩降伏開城後も
城下の会津戦死者の遺骸は、
新政府から埋葬が許可されず
放置されたままでした。
これを見かねた長命寺の住職、
幸證師は独力で付近の遺骸140余体を集め
寺内に埋葬し、翌年三つの塚を築き
戦死者之墓の墓標を建てました。
現在の墓は、明治11年(1878)
旧会津藩士75名によって建てられ
ましたが、碑面に「戦死墓」の三文字以外
表示することは許されませんでした。」
僕たちは行く先々で、
「官軍は死体の埋葬を禁じたが、
見かねた誰それが極秘に埋葬した」
こんなフレーズを見てきましたが、
会津藩の凄惨極まる状況は、
ほんの一部しか
理解できていないでしょう・・
いや一部でも理解できれば、
良い方かな?
思ったよりも立派です・・
参拝。
裏側にはお墓を建てた
経緯が刻まれていますが、
ここでも明治政府への
配慮が見られます・・
二つ挙げると、
戊辰八月は、
まだ慶応四年だったのに
明治一年と記されている事。
(明治改元は9月8日)
次に、
「官軍」と明治政府の
正当性を認めた呼称を使用している事。
(勝てば官軍負ければ賊軍ですから・・)
まだまだ会津は賊軍の汚名を
晴らすことが出来ない
苦しい時代だったのでしょう・・・
本堂
会津藩士の皆様に参拝後は
本堂へと向かいます。
本堂。
本堂左手前の南無阿弥陀仏と
刻まれた石碑と仏像に参拝。
本堂に参拝し長命寺訪問は完了。
時間外(多分)に訪問させていただき、
感謝しかありません。
余談
ネットで修復前の
築地塀の写真を見ました・・
弾痕は僕たちが見た
直径3〜5cm位なんかの
可愛らしいものじゃなく、
砲弾が炸裂したかのような、
壁が大崩れするほどに
凄まじいものが多数残っていて、
長命寺が一大激戦地だったことが
よ〜くわかります。
真実の歴史を伝えるためには、
悲惨さそのものを見せる事も
必要かも知れませんね・・・