月山富田城(島根県安来市)後編
尼子盛衰記
お城でいただいたパンフレットには、
「尼子盛衰記」と題された
尼子氏の紹介文があります。
少し端折って書くと
「出雲尼子氏は、応永二年(1359)
当時出雲守護だった京極氏の守護代として、
尼子持久が近江国から
出雲へ派遣されたのが始まりとされる。
経久の代には出雲周辺国にも影響を及ぼし、
経久の孫、晴久の代になると
毛利元就の郡山城攻めには失敗するも
中国地方八カ国の守護に任命され
毛利氏との争いに勝利し、
石見銀山を奪取するなど
尼子氏の全盛期を創出した。
永禄三年(1560)
晴久の急死によって、
急遽嫡男の義久が当主となったが、
石見銀山を失うなど、
尼子氏の勢力は弱体化していった。
そしてついに
出雲へ侵攻を開始した毛利軍によって
永禄八年(1565)には
富田城を包囲され
徹底した兵糧攻めにより
永禄九年(1566)開城し、
戦国大名尼子氏は滅亡を迎えた。」
このように書かれています。
妻から、
「尼子氏って何?」
そう質問されたので、
この文をもって回答とします(笑)
尼子氏滅亡後10年以上にわたって
尼子氏再興を願い戦い続けた男、
それが、山中鹿介幸盛。
滅亡したとはいえ、
鹿介のような比類なき忠臣が
後世に名を残したことは、
尼子氏の誇りとも言えるでしょう。
三ノ丸
山中(さんちゅう)御殿から
七曲りという難所を登って
月山頂上手前の三ノ丸へ。
七曲り。
途中には「山吹井戸」の
遺構があります。
三ノ丸石垣。
これが月山富田城の
ハイライトの一つでしょう。
方向を変えて撮影。
こちらからだと、
より全体像が分かりますね!
案内。
尼子時代か、毛利時代か、
堀尾時代のものかは
ここに書かれていませんが、
野面積みで、小さめの石を使っているので、
何となく、
戦国期のもののような気がします。
眺望も素晴らしいので動画で撮影。
石垣も(笑)
石垣の横から登ると、
三ノ丸の曲輪です。
二ノ丸
次に二ノ丸へ。
ここからの景色案内。
毛利軍に囲まれた尼子氏、
どんな気持ちで眺めていたのか・・
二ノ丸の先端部へ。
東屋。
ほ~!
こんな所に、
遊び心満載なものがあるとは
全く予想もつかなかったな~(笑)
山中鹿介になり切った?妻(笑)
アイ・ラブ・シカノスケ
鹿介ワールドは続く(笑)
いや~ホント楽しいですね!
こんな素晴らしいおもてなしに
「We Love Toda Castle」ですよ。
そして、ここにも
花の壇と同じく助太刀傘が。
傘を使う機会はなくとも
心和むおもてなしを受けた思い出は、
僕たちの脳裏に刻まれています・・・
いや、妻は忘れているかな?(笑)
二ノ丸と本丸の間にある
堀切(空堀)と石垣の説明。
本丸
遂に頂上の本丸へ。
二ノ丸の説明にあった石垣へ。
堀切の本丸側の石垣。
本丸から見た二ノ丸側の石垣。
曲輪の奥へ。
山中鹿介幸盛記念碑。
やはりここでも鹿ちゃんが主役(笑)。
勝日高守神社
勝日高守神社の氏子さんを
語らずして、月山富田城は、
語れません。
何故ならば、花の壇や二ノ丸にあった
「助太刀傘」を設置しているのは、
勝日高守神社の
氏子さんたちだからです。
たった一つの行為のおかげで、
心が癒やされるのです・・・。
その温かいおもてなしに
感謝しながらの参拝となりました。
左右の灯籠。
本丸の奥、御社殿へ。
石垣の角は、
算木積の初期型のようですが、
いつ頃のものなのでしょう・・・。
拝殿にて参拝。
本殿。
本丸で記念撮影完了。
西袖ケ平
山頂からの下り、
三の丸の下から西に延びる曲輪、
西袖ケ平に寄ってみました。
先端部へ。
眺望もなかなかのもの。
背の高いタンポポと妻。
振り返って三ノ丸の石垣方面を撮影。
馬乗馬場
月山富田城の
一番麓側の曲輪ですが、
最後に足を運んでみました。
馬場へ。
馬場らしく広大です。
尼子氏が毛利氏に包囲された時、
ここは最前線だったのでしょう・・・。
馬場の先端部分には
石垣が積まれています。
尼子興久の墓
尼子経久の三男、興久の墓が、
月山富田城の麓にあり、
帰り道だったので寄ってみました。
お墓は富田城を背に、
大きなタブノキの側にあります。
父、尼子経久に背き、
最後は自害したと書かれています。
今日のご当地自動販売機
ここでも山中鹿介さんは
大活躍していました(笑)
尼子氏再興を願い、
文字通り粉骨砕身した山中鹿介、
まさか400年以上経って、
自分がこんなにフューチャーされるとは、
ご本人も知らなかったでしょう(笑)
Comment
つい先日、行きましたが、暑くて、山中御殿までの往復だけにしました。
それでも、前髪からも雫が滴るくらい、汗だくに。
本丸まで行かれるとは、なかなかの根性ですね
たま様
コメント
本当に
ありがとうございます。
ここも行かれたのですね!
山城は苦しいけど、
楽しいです(笑)