金ヶ崎城(敦賀市)月見御殿

金ヶ崎城の全体像
金ヶ崎城の全体像は、
気比の松原から見る事が出来ます。
海岸の先にそびえる山。
その左半分くらいが金ヶ崎城で、
右側の高くなった部分が、
尾根続きの天筒山城です。
そしてこれを見つつ、
金崎宮にある
高校生が製作した模型を見ると
金ヶ崎城の全体像が
より一層理解できます。
気比の松原から見た風景を
俯瞰した感じでしょうか。
この素晴らしい模型を作った高校生と
大切に保管されている金崎宮、
ともにグッジブ!です。
金崎宮案内記
まずは神社の「案内記」を抜粋しながら
金ヶ崎城の由来を確認してみます。
「金ヶ崎城跡」
「金ヶ崎城は「太平記」に
「かの城の有様、
三方は海によって岸高く、
巌なめらかなり」とあり、
この城が天然の要害の地で
あったことがわかる。
当宮の境内地の大部分が金ヶ崎城の旧跡で、
その重要な史跡の多くは神域内にあり、
昭和九年三月十三日、
国の史跡に指定された。」
南北朝期の詳しい案内は、
金崎宮のブログで抜粋したので
ここでは割愛しますが、
戦国期の記述を見ると、
「金ヶ崎は、信長・秀吉・家康勢揃いの地
天下取りへのターニングポイント」
このように題されて、
朝倉義景討伐の最中、
浅井長政の翻意を知り、
袋の鼠になる前に脱出し、
その殿軍(しんがり)を
秀吉や家康がつとめたこと、
また、信長の妹お市の方が、
この危機を知らせるために
両側を結んだ袋に小豆を入れ
信長に届けたという
伝承などが記されています。
月見御殿(展開広場)
金ヶ崎城のメインスポットは、
お城好きでなくとも感動できる(笑)
「月見御殿」という
海が見える断崖の上かと思います。
俯瞰図が便利なので、
これを元に僕たちの散策したルートを
書き出すと以下になります。
「金崎宮〜尊良親王御陵墓所見込地〜
古墳・金ヶ崎古戦場跡〜月見御殿跡
〜三の木戸〜焼米石出土跡〜
二の木戸〜金崎宮」
このブログでは月見御殿跡までを
書くことにします。
尊良親王御陵墓所見込地を参拝後、
さらに山を登ります。
「展海広場」というネーミング、
なかなか良いじゃないですか!
もしかしたら、
この名前をつけた人の頭には
長崎県佐世保市にある
九十九島の絶景スポット「展海峰」が
よぎったのかも?(勝手な想像)
ちなみに展海峰からの景色はこちらです。
妻はこの時ヤギと戯れたこと
覚えているでしょうか?(笑)
話は金ヶ崎城に戻って、
金ヶ崎古戦場の石碑へ。
「金古戦場」碑。
碑文は漢文なので、
基本分かりません(笑)
「左近衛中将新田義貞・・
元弘之初(原稿元年の事か?)
皇太子恒良及親王尊良赴・・・」
こんな文字が見えていますので、
古戦場というのは、
「南北朝時代の戦い」の事を
指しているようです。
「古墳」
「明治42年6月に発見された円墳で、
竪穴式石室を有し、
副葬品は直刀一振・同鏡一面が
出土している。」
城跡に古墳というパターン、
結構多いですね。
さらに上へ。
「月見御殿」
「この付近は金ヶ崎の最高地
(海抜86m)で月見崎といい
通称月見御殿と呼んでいて、
南北朝時代の金ヶ崎城の本丸跡といい、
戦国時代などにも
武将が月見をしたと伝えている。」
最後の「武将が月見」というフレーズ、
「戦争と平和」みたいな対比で、
なんか素敵ですね!
戦いに明け暮れる武士も
夜は月を見て、
ひとときの安息を感じたのでしょうか・・
そして、「展海広場」のメイン、
断崖近くへ・・・
お〜これは素晴らしい!
停泊するのは
「気比つるが丸」。
これはめっちゃ良い名前ですね!
「気比」と「敦賀」、
今いる場所にドンピシャな船名に
思わず喜び合う僕たち(笑)
右側の火力発電所と
セメント工場も入れて撮影。
そして、
僕たちと同じ目線で景色を
ご覧になっている方が
いらっしゃいます・・・
大正天皇が皇太子時代、
ここに立たれてのでしょう・・
やっぱツーショットは
この景色を背景に撮るしかないか(笑)
(続く)