金ケ崎要害歴史館(岩手県)概要

見所多し
岩手県奥州市とお隣の胆沢郡には、
歴史絡みの見どころが多くあります。
僕たちは5時間ほどの滞在でしたが、
くまなく体験するならば、
まる2日間は滞在することを
お勧めします(笑)
Googleマップで確認すると
平安初期の胆沢城跡と関連する
平安後期の鳥海柵跡、
江戸時代の金ケ崎要害歴史館と
主要なものだけ挙げても
こんなにあります。
また、数十年後には、
胆沢城近くの水沢町(現水沢市)出身である
大谷翔平選手の博物館も
このマップに追加されているはずです(笑)
パンフレット
前九年合戦の後、
筑前国(福岡)へ流刑となった
安倍宗任が居城としていた
鳥海柵跡訪問の予習的な意味で、
金ケ崎要害歴史館へ入ったのですが、
その展示の主要展示は、
安倍さんの時代から600年後、
江戸時代の「要害」というもの。
ちょっと予定と外れたものの、
新たな知識は鋭意大歓迎(笑)
その内容を
まずはパンフレットで確認してみます。
「「要害」とは「城」に準ずる
軍事支配拠点です。
一国一城令により
「金ケ崎城」は名称を「金ケ崎館」と変え、
幕府は要害として城に準ずる
取り締まりをしました。
金ケ崎要害は「仙台藩21要害」の一つで、
仙台藩の北端を守る防御の要でした。
元和元年(1615)、
江戸幕府は一国一城令を定めました。
仙台藩は、城以外として各地に
「要害」「所」「在所」を置き、
重臣とその家臣団を配置して、
小城下町を形成しました。
これを仙台藩の「要害制」と呼びます。」
この説明で連想したのは
藩内に120箇所ほどの武家屋敷を造り、
各地の防衛拠点としていた
鹿児島藩の「外城制度」です。
かなり似ていますね!
また、一国一城令で廃城された
福岡藩の黒田六端城も、
藩境監視の城でしたが、
どの藩も領地管理に関して
かなり神経質にならざるを
得なかったのでしょう。
パンフレット内面は展示物などの紹介です。
次にガイドマップも確認。
「藩境の緑ゆたかな要害」とあります。
ここでの藩境とは仙台藩側から見た
南部藩側との藩境の事で、
現在は、どちらも岩手県となって、
県境ではありませんので
のどかなものです(笑)
武家町の構成。
金ケ崎要害の見所マップ。
魅力的なところばかりですが、
時間が無いので、ほぼ行けず・・
資料館エントランス
胆沢城からは車で約7分、
びっくりするほどのご近所です(笑)
入口。
素晴らしい建物ですね!
玄関へ。
玄関入るとすぐ右側で迎えてくれるのが、
「皆白行山流三ケ尻鹿踊」です。
「古文書には当初「皆白仰参踊」と記され、
後に「皆白仰参獅子踊」となる。
昭和44年から
「皆白行山流三ケ尻鹿踊」となる。
自分で太鼓を打ち鳴らし、
自分で歌い踊るという
太鼓踊り系の鹿踊は宮城県北、
岩手県南部地方独特の
民俗芸能である。」
このように記されています。
何だか、
空也さんの「空也踊躍念仏」を
彷彿とさせますね!
緑の庭が見える窓枠の下に安置された、
「紙本着色前九年合戦絵詞」より
「重陽の節供に安倍貞任、将軍を奇襲巣」
案内には、
「ある年の九月九日。
重陽の節供(句)に安倍貞任・宗任らは、
500騎余りの従者を引き連れて
源頼義の館近くに参着し、
館を奇襲した場面です。
左に描かれている人物は
安倍貞任・宗任とその軍陣、
右に描かれている人物は将軍方の
後藤内則明と従者です。」
このように記されています。
いきなり当初の目的に叶う(笑)、
貴重な絵詞を見られるとは、
めっちゃ興奮しますね!
エントランスはここまでで、
次はいよいよ展示室へと入ります。
(続く)