観自在王院跡(岩手県平泉町)

 

「神の地図」

平泉町の観光スポットは、

約2km四方に凝縮されているので、

徒歩だけで巡ることとしました。

但し、

平泉駅に着いたのは13時。

日没は17時半前なので、

少なくとも4時間で完璧に(笑)

徒歩散策を完了しなければなりません。

その為には秘密兵器が必要です。

それは・・

「紙の地図」!

これを随時見ながら歩き、

時折スマホで確認するのが、

徒歩での散策を成功させる近道。

「平泉観光案内所」でいただいた

この地図のお陰もあって、

きっちり4時間で、

完璧っぽい(笑)散策が出来たのです。

まさに「神の地図」・・・ですね!

毛越寺もうつうじ方面へ

平泉町では、

まずは駅から近い毛越寺へ行き、

その後、時計回りに中尊寺や

北上川沿の高館義経堂などを巡り

平泉駅に戻るコースを選択したのですが、

これは大正解でした。

平泉駅前からスタート。

まずは案内図を確認。

「神の地図」をいただいた、

平泉観光案内所へ。

親切な女性が道案内もしてくれ、

これで、鬼に金棒状態に(笑)

目指す毛越寺へは、

駅を背にして一直線の道。

この時、毛越寺方面を向いた

龍の頭のような雲が出現!

少し歩くも相変わらずの龍頭の雲。

毛越寺への道標。

平泉では主な観光地と、

そこまでの距離が明示された案内板が

各所に設置されているので、

心強い限りです。

毛越寺の入口手前の

観自在王院跡かんじざいおういんあと」に到着。

まずは案内板を確認。

平泉町全体の案内。

観自在王院跡の案内。

書き出すと以下になります。

「観自在王院は、藤原基衡

(1105−1157)の

妻により建立された寺院です。

1573年に焼失したと伝えられ、

17世紀には境内の半分が

水田として使われるようになりました。

昭和29年(1954)から

始まった発掘調査により、

大・小2棟の阿弥陀堂を含む

複数の建物や浄土庭園の

遺構などが確認され、

12世紀の様相が明らかにまりました。

(中略)

大阿弥陀堂跡、小阿弥陀堂跡前方の池は

舞鶴ヶ池と呼ばれ、

石組・洲浜・中島などが

ほぼ完全な状態で残されており、

当時の作庭技法を理解する上で貴重です。

(後略)」

もう一つの案内。

ほぼ先ほどのと同じ内容ですが、

藤原基衡の妻が建立したことは、

「吾妻鏡に記述あり」と

書かれていますので、

吾妻鏡が愛読書だったという

徳川家康さんも

このことは知っていたでしょう(笑)

こちらは案内板の航空写真に

僕たちが見学した

3箇所の場所を

黄色矢印で記入したものです。

今いるのが下(南側)の矢印、

その後、左側の矢印、

毛越寺庭園の西側から眺め、

最後に、中尊寺へ続く道すがら、

右側(東側)の矢印から

池近くに行き散策は完了しています。

南側から

時間節約のため、

案内板の場所から遠景を眺めます。

手前は南門跡。

以下、案内の抜粋です。

「観自在王院は、

南と西に出入りの口の門がありました。

この地点は南門跡があった場所で、

門の規模は東西4.5mあり、

門の脇には寺院境内の南境を限る

築地または土塁の端を固めたと思われる

角柱が見つかっています。」

「平泉TIME SCOPE」

なるものがあるようで、

ここではバーチャルで

往時の様子が見られるようです。

(僕たちはやってません)

西側から

次に毛越寺側(東側)からの景色です。

先ほどいたのが写真右端で、

真ん中あたりに

阿弥陀堂などがあったようです。

毛越寺側の案内。

先ほどの案内とダブる所もありますが、

書き出してみます。

「毛越寺を建立した基衡公、

その妻が建立した大小二つの

阿弥陀堂を観自在王院という。

四隅が丸みを帯びた方形の苑池

(舞鶴が池)を中心とする浄土庭園を有し、

特別史跡・名勝に指定されている。

毛越寺との境にある玉石の敷地は

車宿(現在の駐車場)であったという。

現阿弥陀堂の東側には

基衡公夫人の墓碑がある。」

西側から

最後に西側から。

観自在王院の向こう側には

毛越寺庭園の木々が見えています。

池の辺りまで行ってみました。

「伝普賢堂跡」

案内には、

「約4.6m(3間)四方の方形建物の跡で、

周囲には約7m四方の基壇がありました。

発掘調査の結果、

この堂は池を埋め立てた上に

建てられたことが分かりました。」

中島跡。

案内。

「貞和6年(1350)と

観応2年(1351)在銘の

板碑などが出土しており、

中世には東部が墓地になっていたと

考えられています。

江戸時代に池が水田化した際、

島の周囲が削り取られましたが、

発掘調査の成果に基づき

築造当時の姿に修復されました。

また、

文和4年(1355)の銘を持つ

鉄製宝塔が近世に至るまで

中島中央に置かれていました。

この宝塔は塔身と基台のみが残り、

現在毛越寺博物館に保管されています。」

このように書かれています。

観応2年と言えば、

足利尊氏と弟の直義(ただよし)が対立した

観応の擾乱真っ只中の年。

恐らくその喧騒は、

ここ平泉にもあったはずですが、

宝塔の建立はそんなことは無縁な

ものだったのでしょう・・・

余談・福岡県との繋がり

Wikipediaで調べると、

観自在王院を建てた藤原基衡の妻は、

安倍宗任あべのむねとうの娘なんですね!

宗任さんは、

前九年の役で源頼義に負け、

都に連行された後、

九州は福岡県宗像の大島に流された人で、

僕たちは以前、

大島にある宗任さんのお墓に参っています。

なんか観自在王院・毛越寺と

地元福岡のズゴイ繋がりに、

ちょっと鳥肌ものでした(笑)

 

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