櫛田神社・令和7年初詣(本殿)

 

ついででゴメン!

正直言って、櫛田神社への初詣は、

すぐ近くのお寺で、

妻のおばあちゃんの

お墓参りをする「ついで」です(汗)

神様・・ゴメン!

しかし、

ついででも行くからには、

何か新たな知識をGETしたいのが、

好奇心しかない旅人の性(笑)

そんな僕の気持ちに応えてくれたのは、

櫛田神社の神様たち。

「ついで」というにも拘らず、

広〜い御心で、

僕の欲望を叶えてくれたのです!

一の鳥居

櫛田神社への参拝で、

神社から少し離れた

一の鳥居から向かう人はほぼ皆無です。

なので、

このあたりは、

初詣の賑やかさとは別世界。

そんな中、

もうすぐ一の鳥居という所で、

偶然見つけたのがこちらです。

ただの電柱看板なのに、

書かれている内容が、

めっちゃ濃いのですよ!

「博多町割の基軸線/聖福寺→→

鎮西探題の氏神 櫛田神社」

「元寇の後、

鎌倉幕府は更なる侵略に備えて、

博多に鎮西探題を設置(1293)、

源頼朝開基の聖福寺の

伽藍配置の中心線を基軸線のひとつに

半丁単位で町割をして

鎌倉になぞらえた

強固な城郭都に作り変え、

鎌倉、京と並んで

日本の三大重要都市に位置付けました。

ちなみにこの電柱はほぼ

聖福寺からの基軸線上にあります。」

「ここは冷泉町

(当時ここは犬射馬場)」

このように書かれています。

この電柱看板、

「歴史の現場」にあるというのが、

大きなメリットでしょう。

頼朝開基の寺が福岡にあったとは、

初めて知りました。

また、

Googleマップで確認すると

より一層理解が深まります。

確かに櫛田神社と聖福寺は、

電柱を通って一直線ですね。

現在の表参道と一の鳥居は、

1ブロック南側ですが、

鎌倉時代は電柱部分の道が、

表参道だったのかも知れません。

一の鳥居前の案内。

櫛田神社280m、

聖福寺480m。

一の鳥居から二の鳥居、神門までは一直線。

鳥居をくぐって、

聖福寺方面を見ると、

大博通りの向こうには、

聖福寺の手前に位置する

東長寺の墓地が見えています。

ここには福岡二代藩主・黒田忠之、

三代藩主・光之などの墓があるようなので、

大きな墓石はそれかも知れません。

(黒田官兵衛、長政の墓は別のお寺です)

参道

まずは・・パン屋さんを発見(笑)

ユニークなパンに思わず撮影。

(この日は店休日)

静かな参道ですが、

お洒落なお店もあります。

博多町屋ふるさと館の前にて、

朱傘と共にはしゃぐ妻。

御社殿

ここからは人、人、ひと〜(笑)

さっきまでの静寂とは

真逆の賑やかさで、

初詣客の長い行列は、

拝殿から200m程あったでしょう。

大銀杏に新年のご挨拶。

行列に並ぶ気力はないので、

清道から御社殿を目指します。

ここも勝手口(笑)から中へ。

近くまで行き、

少し遠くから参拝。

唐破風軒下両サイドの

風神様・雷神様にもご挨拶。

山笠

次は境内社ですが、

ますは恒例(笑)飾山へ。

飾山の表は、

源平合戦、屋島の戦いでの

那須与一が扇の的を射る場面です。

偶然ですが、

僕たちは昨年屋島に行き、

このシーンが繰り広げられた場所を

訪問していますので、

思い出写真を二枚ほど・・

那須与一が馬を止めた駒立岩。

100mほど先の扇の的。

見送り(反対側)は、

大鯰が暴れると地震が起きるという

民間信仰を元にした、

大鯰を要石(かなめいし)で

鎮める場面です。

鹿島神宮の要石で頭を、

香取神宮の要石で尻尾を

封じている所でしょうか?

こちらは10年前に参拝した

茨城県、鹿島神宮の要石です。

要石の表面は凹形。

同じく10年前に参拝した

千葉県、香取神宮の要石の案内には、

「地中に住みつく大鯰魚を抑える為

地中深く石棒をさし込み

その頭尾をさし通した。

香取は凸形、鹿島は凹形である。」

このように書かれています。

要石の表面は凸形。

大鯰を気に入った妻の要望で、

この前でツーショットを撮ることに。

大鯰に大喜びの妻(笑)

この後、

境内社などへと向かいます。

(続く)

 

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Comment

  1. 源能直 より:

    へー、探題の氏の神!市博の展示に、古代、中世、近世の博多の街中の変化を見ることが出来る、ジオラマ(正確にはジオラマではありませんが)、があります。コチラでは、蒙古襲来を前に、弘安来襲直前、異国調伏を目的を祈願して、肥前神崎櫛田社の宝剣が博多郷中に下された時を、博多櫛田社創建とする九大・服部英夫教授の説を採り、古代の博多街中ジオラマに博多櫛田社は示されていません。市博は、博多櫛田社社伝がいう天平宝字元年創建は史実ではないという見解を公にしていると云うことになるのですが、旅人山本さんの本文にもあるやうに、鎮西探題の設置は蒙古襲来時ですから、服部説を補完するモノとして有意義です。同歴史看板は額縁屋さんの立石さんて方の肝入りで、市内ホウボウに設けられいますが、立石さんも博多櫛田社創建服部説を採られているのでせう。心強うございます!

    • tabibito1722 より:

      源能直様

      コメントありがとうございます。
      櫛田神社創建についての見解と、
      肥前櫛田神社との関連、
      また、看板の大元まで、
      実に詳しい説明をいただき
      さすがと感心しきりです!

  2. 源能直 より:

    コチラのパン屋。店の奥へ声をかけると、店構えからは想像出来ない、強面のオーナーが顔を出します!!!ご用心!!

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