記念艦 三笠・外観
リニューアル真っ只中
僕たちが三笠公園を訪問した
令和8年1月14日は、
リニューアル工事の真っ只中で、
記念艦三笠の周囲のみが、
立入可能になっていました。
老朽化し、集客が減ったものを
近代化・活性化する工事のようで、
完成は令和8年3月末頃というから
既に新装なった三笠公園が
お目見えしているかも知れません。
僕の目論見違いもあり、
三笠艦内の散策は、
全く時間が足りなかったので、
リニューアル後の三笠公園には、
興味津々です・・
また行くんかい!(笑)
外観観覧
東郷平八郎元帥に出迎えを受けた後、
次に三笠の周囲を散策します。

手前の船尾からスタート。

「行進曲 軍艦」顕彰碑。
僕たち世代の多くが、
「軍艦マーチ」として認識している曲は、
「行進曲 軍艦」が正式名称だと
この石碑で初めて知りました。

裏面には歌詞が刻まれています。

船尾。

「みかさ」の金プレート。
日本海海戦の時にもあったのかな?

真横から。
しかし距離が取れないので、
艦首(左側)と艦尾は切れています(汗)
全体像は動画で撮影。

こちらの写真は、
後ほど猿島に渡った時に
船上から撮影した全体像です。
このアングルだと
港に停泊しているようにも見え、
三笠の現役感が増し増しですね!

工事の為、船首部分への立入が出来ず、
菊の御紋を見る事ができませんが、
こちらも猿島から帰る時に、
船上から確認ができています。

菊の御紋、
テンション上がりますな〜!

艦首から見た舷側の副砲など。

15cm副砲。
大きさの比較に妻登場。

艦内出入口付近の展示。

右は「1848年製30ポンドカノン砲」。
「安政元年(1854)
伊豆下田港で座礁した
ロシア艦隊の船の砲と推定され、
米海軍横須賀基地に
保存されていたものが寄贈された」
このような案内があります。

「記念艦 三笠の由来」
以下、全文です。
「三笠は1904年(明治37年)
2月に始まった日露戦争において、
東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、
終始敵の集中砲火の中で奮戦し、
同年8月10日黄海海戦では
露国東洋艦隊に大打撃を与え、
遂に1905年(明治38年)
5月27日の日本海海戦では、
遠来のバルチック艦隊を
全滅させる偉功をたてた
日本海軍の代表的な軍艦であります。
日本海海戦の大勝利は、
世界史の流れを
大きく変えたと言われますが、
この偉業を成し遂げた
日本民族の誇りと自信を
新たにするとともに、
その栄光を永く後世に伝えるために、
その「シンボル」として、
三笠は1926年(大正15年)以来
収蔵する多数の記念品とともに、
ここ白浜海岸に保存され、
多くの人に親しまれてきました。」
この案内に、
保存の経緯に関する、
Wikipediaの内容を抜粋して
プラスすると以下になります。
「昭和20年の終戦後は、
ソ連からの要求で、
解体処分されそうになったが、
知日派だったアメリカ陸軍の
チャールズ・ウィロビー少将らの
尽力によりこれを逃れた。
敗戦から1年経たないうちに
切断可能な金属は日本人の窃盗犯より
ガスバーナーで切断されて盗まれ、
甲板のチークは
薪や建材にするために盗まれ、
「三笠」は急速に荒廃していた。
東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍の
チェスター・ニミッツ元帥は
東郷の乗艦であった
三笠の状況を知ると激怒し、
海兵隊を歩哨に立たせて
三笠を護ろうとした。
しかし横須賀港を接収した
アメリカ軍のために娯楽施設が設置され、
「キャバレー・トーゴー」が
艦上に開かれた。
のちに後部主砲塔があった場所に
水族館が設置された。
この惨状を見たイギリス人の
ジョン・S・ルービンが
英字紙『ジャパンタイムズ』に投書、
大きな反響を呼んだ。
さらに、
前述のように東郷平八郎を敬愛しており、
「三笠」の惨状を憂いた米海軍の
チェスター・ニミッツ元帥が著作
『ニミッツの太平洋戦争史
(The Great Sea War)』の売上の一部を
「三笠」保存や東郷神社再建奉賛会に
寄付するなどして、
国内外の人々の間で復元保存運動が
徐々に盛り上がりを見せていった。
当時の世論は復元保存派と完全撤去派の
真っ二つに分かれたが、
最終的にアメリカ海軍がLSTを
日本政府に寄付して
予算を上積みするなど、
予算は国会で承認された。
復元にあたり、
長官室に設置されていた
テーブル等をはじめ、
アメリカ軍が撤去した
記録が残っているものは、
ほぼ全てが完全な形で返還されたが、
誰が持ち去ったか不明なものは、
今日に至るまで
ほとんど返還されていない。
1958年(昭和33年)にチリ海軍の戦艦
「アルミランテ・ラトーレ」が除籍され、
翌年日本において解体されたが、
同じイギリスで建造された艦であったため、
チリ政府より部品の寄贈を受けるという
幸運があった。」
最後に、
「2009年に横須賀に寄港した
アメリカ海軍空母「ニミッツ」の乗員が、
三笠の船体塗装のボランティアを行った」
このように記されています・・
荒廃した三笠が復活、
無事保存となったのには、
幾つもの幸運が
重なったためでしょうが、
ジョン・S・ルービンの投稿、
チャールズ・ウィロビー少将の
ソ連側の要求阻止と、
その後のニミッツ元帥の
三笠の保存に対する情熱、
この三人の外国人の行動あってこその
今の三笠だと感じます・・・

手前は「ロシヤの主砲砲弾」で、
メインは(笑)
「三笠の主砲砲身」(後方)です。
以下、案内全文です。
「伏見宮博恭王殿下(当時少佐)
砲台長としてご奮戦の
後部主砲の右砲身の一部です。
明治37年(1904)8月10日の
黄海海戦で被弾し破損脱落したものです。」
凄いものが展示されているのですね!
日本海海戦の9ヶ月ほど前の事ですが、
三笠の奮戦が目に見えるようです。
(続く)