医王寺(福島市)佐藤兄弟・源義経像

 

きっかけは香川の旅

今年(令和6年)3月、

僕たちは、源平合戦で有名な

四国、香川県の屋島を旅しました。

その一番の目的は、

屋島の戦いの時、

源義経の身代わりとなって討死した、

佐藤継信のお墓参りです。

それがきっかけとなり、

佐藤継信が福島出身で、

医王寺にもお墓がある事を知り

今回の訪問に至ったっという訳です。

寺頭

山形県米沢市から車で約1時間、

東隣に位置する

福島県福島市の医王寺に到着。

「義経の忠臣、

佐藤継信・忠信一族の菩提寺」

このフレーズだけで、

お墓参りテンションはMAXに(笑)

境内入口へ。

ここでは、美しい生花が

僕たちを歓迎してくれます。

花に見惚れるていると、

「車止め」という

本来機能があることさえ、

全く意識させません。

案内を要約すると

以下になります。

「当寺、瑠璃光山医王寺は、

天長三年(828)の開基で、

当地方を「信夫」といい、

信夫の荘司であった佐藤基治は、

大島城を居城とし奥州南部に

非常な権勢を誇っていた。

基治は医王寺の伽藍を再興し、

一族の菩提寺として興隆させ、

やがて、平泉の藤原秀衡のもとにあった

源義経が平家討伐に向かう際、

基治はその子、継信・忠信を遣わし、

兄弟は義経のもと目覚ましい活躍をしたが、

兄継信は屋島で、弟忠信は後に京都で、

それぞれが、義経の身代わりとなり、

討死した。

その後兄頼朝に追われた義経が

弁慶らと共に平泉へ向かう途中、

当寺に参籠して

二人の追悼の法要を行なった。」

貴船社

まずは神社へ。

山門手前右に鎮座しているのが

貴船社です。

参道。

鳥居の寄進者には、

「佐藤」さんが何人もいて、

ここには佐藤継信たちの子孫が、

多くいらっしゃることを実感します。

本殿にて参拝。

神額も佐藤さんの寄進ですね!

御由緒などは見当たりませんが、

貴船という名からして

水の神様かと思います。

神仏習合時代は、

鎮守社だったのかも知れませね。

山門周辺

貴船社参拝後、山門前へ。

お〜顔出しパネルがありますよ!

これは、やるしかないでしょう(笑)

これは討死した佐藤継信・忠信を

思いやった姑・乙和の涙を見て

それぞれの妻が夫の甲冑姿を再現して、

義母の心を和らげたという

故事をもとにしたパネルです。

いきなり感動ですよ・・

医王寺さん・・

木札。

山門をくぐると参道で、

すぐ右には巨木がそびえています。

「医王寺のシラカシ」

「本樹は、

寛永年間(1624〜1643)の

本寺院再建時に植えられたと伝えられる。

太さは、根回り9.45m、

目通り囲5.03m、樹高25m、

推定樹齢300年で、

樹下の陰面積は96㎡あります。」

このように記されています。

陰面積って言葉、

初めて聞きましたが、

それだけ樹勢も盛んだという事でしょう。

樹下の妻(笑)とアラカシ。

宝篋印塔や古い手水鉢。

境内を俯瞰した案内図。

こちらは医王寺のパンフレットに

掲載された平面境内図で、

継信さんたちのお墓は、

一番奥にありますが、

まずは右側の墓地手前に建つ

継信・義経・忠信像を目指します。

昔は小川が流れていたのかな?

継信・義経・忠信像

本堂参拝を後回しにするのは、

申し訳ないとは思うものの、

やはりメインの目的地は、

先に巡るのが僕たち流(笑)

本堂の屋根、立派だ〜!

「謡曲「摂侍」と医王寺」

全文を書き出すと

以下になります。

「謡曲「摂侍」は、佐藤継信、忠信の

遺族を中心とする

忠孝の至情を描いた曲である。

継信、忠信の母が山伏摂侍にことよせて、

落ち行く義経一行を待ち受けていると、

さあらぬ態でここ館(寺)に

立寄った主従十二人を迎えた。

初めは義経一行であることを

隠したてていた弁慶も

母尼に見破られて名乗りあい、

義経の身代わりとなって

戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。

母尼は今は亡き我が子を偲びつゝ

一行に酒を勧め、

継信の遺児鶴若もけなげに

給仕して夜を徹した。

別れの朝、鶴若は御供を乞うたが皆に

慰めすかされ涙ながらに一行を見送った。

医王寺は義経一行が城主基治を訪れ、

当寺に兄弟の遺髪を埋葬して法要を営み、

冥福を祈った寺で、

佐藤一族の菩提寺である。」

義経さん、弁慶さんたちは、

安宅の関でも山伏姿で、

関守の冨樫さんに見破られましたが、

ここでまたもや見破られるとは、

山伏姿では、かえって目立ってしまい、

逆効果だったかも知れません(笑)

石像のエントランスに到着。

右から、

佐藤継信、源義経、佐藤忠信。

佐藤継信さん、

屋島での忠臣ぶり、

しかと見させていただきましたよ!

義経さん、

平家追悼のヒーローでした・・・

しかし、

狡兎こうと死して走狗そうく烹らる」の諺通り、

兄から殺されるという悲運、

同情しかありません・・

佐藤忠信さんは、

義経が兄頼朝から追われている時、

「俺が義経だ〜!」

と言って追手を引きつけ、

義経を逃し、

自らは討死したそうです。

石像近くの歌碑。

江戸時代、医王寺を訪問した

松尾芭蕉の句とともに

歌詞が刻まれていて、

一番は継信、二番は忠信の最後、

そして三番は兄弟の父基治が、

頼朝の奥州征伐の時、

奮戦し最後を遂げた内容が

歌われています・・・

やはりこれは

やっておかないと(笑)

(続く)

 

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