南堀・副島種臣誕生地(佐賀城一周)
案内の「案」
佐賀城南堀界隈には、
「跡」とつく場所が
いくつもあり、
その多くはまさしく「跡地」で、
往時の建物などはありませんが、
多くの「案内板」のお陰で、
何も無い場所であっても
大いに歴史を想像し、
楽しむことが出来ます。
案内板の「案」の文字には、
「思いを巡らせる」とか、
「色々と考える」などの意味があるようで、
間違いなく、
「思いを巡らし考え、
無いものを見た気にさせる」
そんな案内板の有り難さ、
改めて感じています。
西御門跡
島義勇像から城内通り沿いに
少し東に進むと西御門跡があります。

こちらは、西堀の南側から撮った、
西御門跡方面で、
右端の東屋近くに門があったようです。

「佐賀城西御門と赤石護岸」
案内を抜粋すると以下になります。
「寛政8年(1796)の
「佐賀城分間御絵図」でみますと、
城には北御門・東御門・西御門・裏御門の
4箇所に城門が設置されていますが、
その西御門区域では、
城内へ進む通路を「土橋」→「木橋」→
「土橋」→「西御門」の多様な配置構成で
設定しています。
さらに、「西御門」には
「高麗門」という形式を採り入れ、
この門を通り抜けた内部(東側)は、
土塁を用いた堅固な出入口の構造
(いわゆる枡形虎口)を唯一採用するなど、
ここから城内へは容易に
進入できない工夫もなされています。」
「寛政年間(1789〜1800)以降に
赤石を用いた石積みの護岸に
改修されています。
赤石の護岸は、不等沈下を防止するために
胴木(松材)を基礎部に敷き、
その上に30cm程度の大きさに加工した
石材を5〜6段積み上げるとともに、
それら石垣の崩落を防止する目的で、
護岸前面にも角杭や丸太杭を打ち込んで
補強するなど工事全体が伝統的な技術で
築かれていたことも判明しました。」

何故、西御門のみを
枡形虎口にしたのでしょうね。
殿様の御殿に近かったから?
それとも
他所は手抜きした・・まさか!(笑)

西堀、南側の風景。
西堀〜南堀へ
ここからは西堀の南半分を
南堀へと歩きます。

めっちゃ水辺を歩けるので、
そこから写真を撮っている僕が
堀に落ちるのではと
妻が心配していました・・

西堀と南堀の結節点の
リフレクション写真。
佐賀城の水堀、
ほんといい仕事してますな〜(笑)
南堀・観頤荘跡
ここからは南堀に沿って歩きます。

南堀端から見た西堀。

南堀。

少し行くと「案内板」が出現します。

「観頤荘跡」
以下、全文です。
「観頤荘は三代藩主鍋島綱茂公
(1652〜1706)により
1698年(元禄十一)年に
造営が始められた大名庭園で、
西御屋敷とも呼ばれました。
総面積は約3万5千坪もあったとみられ、
この時期の大名庭園としては
全国屈指の規模でした。
造園の木石は摂津国(兵庫県)から
大船で廻漕されたと伝わり、
滝、川が流れ築山には草木が茂り、
孔子を祀る聖堂や書庫、展望台・月見台、
茶屋など数々の建物が配され、
中には珍しい鳥や動物を
飼育する施設もありました。
「頤」には「養う」という意味があり、
庭園の中で天地が万物を育む様子を観て、
身体や道徳を養うことから
「観頤荘」と名付けられました。
綱茂公没後まもない1707(宝永四)年に
大部分が解体されて武家屋敷となり、
惜しい事に
わずか九年ほどで姿を消しました。
聖堂は引き続き残りましたが、
一部が重臣諫早家の別荘となったのち、
八代藩主鍋島治茂公の時代に
再び藩所有の別荘「十五御茶屋」と
なりました。
幕末になると一帯には
軍事調練を行う鬼丸調練屋敷が設けられ、
初期の洋式大砲の鋳造も
この地で行われました。
1846(弘化三)年に
聖堂も解体されましたが、
聖堂に掲げられた扁額と安置の聖像は
鍋島報效会(徴古館)に現存し、
佐賀市重要文化財に指定されています。」
勝手な推測ですが、
藩主が亡くなったら即廃止というのは、
家臣達は藩主の浪費に
頭を悩ませていたのでしょう。
「珍しい鳥や動物を飼育する施設」
これは、
当時の幕府将軍綱吉の出した
「生類憐みの令」と
無関係ではない気もしますが
どうなんでしょうね。

絵図を拡大。
まるでリアル山水画です。
こりゃ〜維持費かかりそう(笑)
南堀の石垣
さらに東へ。

ここは蓮だらけ。

石垣が登場。

「佐賀(嘉)城南堀の石垣」
以下、全文です。
「佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を
拡張して築かれたもので、
慶長七年(1602年)
本丸の建築に始まり、慶長十六年まで
十年の歳月を費やして完成した。
佐賀城は、典型的な平城
(平地に築いた城)である。
高い石垣は天守閣付近のみで、
まわりは堀と土塁を巡らして守りとした。
堀には石垣の護岸があり、この造り方は、
佐賀地方の軟弱地盤に対する工夫として、
基底部に沈下防止の松丸太2本を敷き、
その上に石垣を築き、
さらに最下部の石が
せり出すのを留めるため、
前面を角杭(約3m)でおさえる
工法がとられている。
使われている赤石は、
多久市納所産といわれており、
佐賀城の堀割や水路の護岸に
よく用いられている石材の一つで、
加工しやすい特質をもっている。
この石垣は、南堀の南岸の石垣の一部で、
この地点から西方約19mの道路下に
築かれていたものを
一部移築したものである。」
副島種臣誕生地
石垣近くにあるのが、
副島種臣誕生地ですが、
ここは兄である
枝吉神陽の誕生地でもあります。
枝吉神陽はその功績にも関わらず、
「佐賀の七賢人」には含まれず、
従って、名称としては、
「副島種臣誕生地」なのでしょう。
ちなみに、
寸劇観覧でお世話になっている
「佐賀の八賢人おもてなし隊」は、
「佐賀の七賢人」に枝吉神陽を加えて
「八賢人」としています。

この案内も副島種臣オンリーですね。

こちらは二人平等に(笑)
案内がありますので、
「枝吉神陽生誕地」の
全文を書き出します。
「枝吉神陽、1822(文政五年)
〜1863(文久三年)は
本名種経、枝吉種彰(号南濠)の
長男としてこの地に生まれ、
幼時より神童ぶりを発揮し、
二十才にして江戸の昌平黌に学んだが
学才群をぬき、たちまち舎長に推された。
二十六才の時帰郷して弘道館教諭となり、
父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ、
同志を集め「義祭同盟」を結成し、
藩内尊皇運動の推進力となった。
この「義祭同盟」からは明治維新に際し、
幾多の人材を輩出したが、
彼らに与えた影響の大きさにおいて
「佐賀の吉田松陰」と呼ぶにふさわしい
偉大な指導者であった。」
早くに他界した事で、
弟に比べると影が薄いようですが、
佐賀の吉田松陰というのは、
誇張された形容では無いでしょう・・・
是非「佐賀の賢人」で行くべきです!

副島種臣誕生地碑。

「副島種臣誕生地
以下、全文です。
(生没年:1828−1905)」
「副島種臣は、この地で生まれ幼名二郎、
父は国学者枝吉南濠。
父や兄・枝吉神陽の感化で
佐賀藩内の尊皇論の
リーダーとなりました。
安政6年(1859)
副島家の養子になりました。
広い教養とともに長崎では、
大隈重信と一緒に英学校致遠館の
責任者となり、
アメリカ人宣教師フルベッキに
学んだことが、
明治政府の下で外務卿として
活躍するのに役立ちました。
明治5年の「マリア・ルーズ号事件」では、
助けを求めた中国人を解放したことで
「正義人道の人」と国際的に支持され、
「日清修好条規」の批准など
外交手腕を発揮しました。
のち、学識の深さで
明治天皇の学問相手(侍講)や
内務大臣などを歴任しました。
なお蒼海などの号で近代書家、
さらに漢詩人としても有名です。
墓は高伝寺のほか、
東京の青山墓地にもあります。」
大隈重信と同じく、副島さんも
フルベッキ先生の薫陶を受けた事、
生涯の宝になったのでしょう。

空き地の中にポツン建つ石碑。
この空間が残っている事で、
想像力も倍増します!

石碑裏側。
父と兄とともにここに
住んでいた事が記されているようで、
大正九年六月の建立と記されています。
亀甲積み石垣
お城好きならちょっと気になる
亀甲積みの石垣が見られるのが、
南堀の真ん中あたりです。

「南御堀端小路」
「佐賀城の南堀に面した
東西約900mの武家地は
南御堀端小路と呼ばれていました。
上級〜中級の武家屋敷15軒からなり、
東半分は、龍造寺家系統の重臣
多久家の所有地でした。
これは戦国時代に龍造寺隆信が生まれた
水ヶ江城があったことに由来します。
また、絵図中に見える「枝吉栄」とは
南堀にちなみ号した枝吉南濠のことで、
その長男が藩校弘道館教諭の枝吉神陽、
次男が外務卿などを務めた副島種臣です。
南堀は、本丸や二の丸に
面していることから、
かつては幅100m程の広い堀が
設けられていました。
現在地南側の車道は
江戸時代と同じ道筋を走っています。
この遊歩道は堀の一部でした。」
この案内を背にして本丸側を見ると・・

亀甲積み石垣が見えています!

ズームして撮影。
復元とはいえ亀甲積み石垣、
なんかテンション上がります(笑)

南堀中間地点から東側を望む。

堀端から見た亀甲積み石垣とNHK、
本丸御殿のリフレクション写真。

「赤松小学校前」交差点。
ここ南堀に沿って歩くと
見えてくるのが、こんな建物です。

なんとこれ、
赤松小学校の門なのです!
毎日ここを潜って通学とは、
めっちゃ羨ましいですね。
(続く)