姉川古戦場(滋賀県長浜市)

 

別の視点

姉川の戦いは、元亀元年(1570年)

小谷城近くの姉川を挟んで、

浅井・朝倉と、織田・徳川の両軍が戦い、

織田方の勝利で終わった戦いです。

何となく一気に小谷城までが

攻め落とされた気になりますが、

小谷城落城はこの3年後ですから

思った以上に強かったという

印象の浅井・朝倉氏ですね。

そしてこの戦いで浅井方の足軽として

敵の首をあげ、

浅井長政から感状をもらったのが、

後の築城名人であり、

姉川の合戦時、敵将だった、

徳川家康の死の床にも

侍ることが許された藤堂高虎です。

(Wikipediaによる)

いったいこの負け戦の最中、

どこで首をあげたのでしょうか?

まだ名も無き足軽だった高虎の

記念すべき出世物語の

スタートでもある姉川、

戦績を訪ねるとき、

こんな別の視点から見るのも

楽しいものですね。

姉川古戦場へ

小谷城戦国ステーションから

西に車で10分ほど走ると

姉川古戦場があります。

実際はここだけでなく、

姉川を挟んで、

家康の陣地があった神社など、

いくつもの見所はあるのですが、

今回は時間もあまりなく、

「姉川古戦場」という

看板のある場所のみの訪問です。

僕が姉川から連想できる

「赤」が基調の看板。

血に染まった川の流れは、

琵琶湖に注ぐ河口までも

続いたそうですから・・・

竹生島へ行く船から撮った姉川の河口。

ここまで血が流れるって、どんだけ~(笑)

姉川古戦場の案内。

布陣している武将は、

歴史にも名を残す

錚々たるメンバーですが、

メンバーたちのその後の人生を見ると、

何とも言えず、しんみりします。

徳川家康側で名前が載っている

小笠原長忠は後年、武田氏に寝返り、

最後は殺されたとか・・・

戦術の中枢でもあった

石川数正は出奔し、

秀吉の臣下となり家康を裏切っていますし、

信長は本能寺で自害、

佐久間信盛は「全然働かない奴!」

「金ばっかり貯め込みやがって」と

信長から折檻状を突きつけられ、

高野山へ追放されています。

森可成は、この3ヶ月後、

琵琶湖西岸の宇佐山城下で

浅井朝倉軍に討たれて死に、

柴田勝家も秀吉に滅ぼされ、

池田恒興も小牧長久手の戦いで討ち死に、

坂井正尚もこの五ヶ月後、

宇佐山城の戦いからの続きで、討たれています。

家康と秀吉以外、

まともに人生を全う出来たのは、

徳川四天王の一人である榊原康政だけ・・・

戦国の世は天下人になるしかない(笑)

元亀庚午古戦場の石碑。

こんな書き方するのは、

江戸時代から戦前までに

建てられたものかな?

戦後ならば、「元亀元年古戦場」ですから。

姉川戦死者の碑。

裏側。

「元亀元年庚午六月二十八日

為陣没建之」と刻まれています。

木導という人の詩。

解説。

姉川の合戦とは関係ない内容ですが、

ここでは良い麦が育つと書かれています。

姉川に架かる橋。

車道なのに、車は通行禁止で、

現在は、人だけが通行可という、

いつ壊れるか心配な橋なのです(汗)

上流の風景。

下流の風景。

ここに佇んで合戦を想像していると

いつの間にか青空が出てきました。

亡くなった戦国の侍たちが、

歓迎してくれたのかな?(笑)

 

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