水戸城(茨城県)二の丸角櫓
水戸学の道
水戸城跡とその周囲には、
約2.6Kmにわたり、
「水戸学の道」と名付けられた
素晴らしい散策路が整備されています。

大手門編でも「ストレスフリー」と
書きましたが、
この道をゆっくりと一日かけて巡れば、
水戸城と周囲のを網羅して
見聞することが出来、
「水戸城通」になれると思います。
それほどまでに「水戸学の道」は、
高い充実度を誇ります。

城内エリアは全てこのように、
江戸時代風の景観で、
空襲などで焼失し、
決して遺構が多いわけでもないのに、
ここが正に「お城だった」という
その「魂」をダイレクトに
感じ取ることが出来ます・・
天守もない、櫓もほぼない、石垣もない、
でもそこには、
江戸時代の水戸城の姿が見えるのです。
正直、水戸城を舐めていました。
この水戸学の道を構想し実現した方々、
心から水戸を愛されているのでしょう。
愛に満ちた水戸城を巡れた僕たちは、
本当に幸せです。
旧水戸彰考館跡
大手門から少し行くと
こちらの石碑が建っています。

「源義公生誕三百年記念碑」
彰考館は大日本史を編纂した場所、
だからこの義公(徳川光圀)の記念碑も
彰考館跡の前にあるのかと思いきや、
紆余曲折があったようです。
案内には、
「当初は昭和三年、
三階櫓(天守)の傍に建立され、
その後、櫓は空襲で焼失、
やむなく記念碑は、
言われも無い場所に移転され
建碑の意義が忘れられていたが、
昭和五十年、義公と関係深い、
この地に移転した。」
このような内容が記されています。
落ち着くべき所に落ち着き、
石碑も安堵しているはずです。

水戸市立第二中学校の門。
この学校敷地の一部が、
彰考館だったそうです。

「彰考館跡」
以下、抜粋・要約です。
「水戸第二代藩主義公 徳川光圀は
修史の志をたてて、明暦三年(1657)に
大日本史(402巻)の編集をはじめた。
寛文十二年(1672)に
その編集所を彰考館と名づけた。
彰考とは「歴史をはっきりとさせて、
これからの人の歩む道を考える。」
という意味である。
当初は江戸小石川の藩邸内においたが、
元禄十一年(1698)に水戸城に移した。
彰考館は、この二中の敷地の一部に当たり、
廃藩置県となった
明治四年(1871)までの
百七十三年間ここにおかれた。
この編集には安積覚(澹泊)など、
多くの学者が携わった。
水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、
二百五十年の歳月を費やして、
明治三十九年(1906)に
ようやく完成した。」
なんと完成まで250年もかけたとは、
驚きですね!
現在建設中のサクラダファミリアが、
着工から150年位で未完成ですから、
まだまだ100年、
大日本史には及びません(笑)
水戸藩〜茨城県の根気強さと執念に、
ただただ敬服するばかりです。

「大日本史編纂之地」碑。

こちらは日本遺産としての紹介。
安積澹泊像
彰考館跡近くには、
「二の丸展示館」という、
資料館があります。

正直、入りたかったけど、
時間がなくやむ無くパス。

展示館近くの水戸学の道沿いには、
安積澹泊の銅像が見えています。

先に大手門前で出会った、
徳川斉昭の銅像と同じタイプの
小ぶりな銅像です。
遠目ではなく、
すぐ傍で凝視(笑)できるのが
嬉しいですね。
この方、テレビドラマ水戸黄門で、
「格さん」のモデルとなった方で、
僕たちは8ヶ月前の茨城旅で、
常盤共有墓地に行き、
お墓参りもしています。

ステンレス製の標柱には、
「安積覚兵衛覚(安積澹泊)」と
正式なお名前が記されいていて、
「かくべえ」=「かくさん」と
命名されたことが理解できます。
享年八十二という
長生きの方も気になりますが(笑)

銅像台座の案内が薄く読みづらいので、
墓地に行った時の案内をコピペします。
「水戸の生まれ。名は覚。
朱舜水に学び三十八歳で史学館総裁となり、
歿年に至るまで「大日本史」紀伝の
編集・校訂に力を尽くしました。
恭謙な人柄で知られ菊を愛し、
勤勉博識で、多くの著述を残しました。」

聡明なお顔と洒落たポーズ。

大日本史を書いているのか・・な?
水戸城二の丸角櫓
次に向かうのは、
令和3年に復元再建された
二の丸角櫓です。

以下、案内です。
「水戸城には4か所の角櫓があった。
下の丸の浄光門付近、
本丸の南西角と北西角(月見櫓)、
そして二の丸の南西角である。
これらの角櫓は、
城下町(城南面)にかたよって
設置されていることから、
城下から武士や町人が
城を見上げたときの眺望を意識して
作られたと考えられている。
二の丸角櫓は江戸時代前期に建てられ、
安永5(1776)年に一度焼失し、
その後再建された。
健在のまま明治維新を迎えたが、
明治から大正年間までには
解体されたと推定される。
令和3(2021)年に、
安永5(1776)年の焼失後に
再建された当時の姿に復元された。」

こちらはかつて二の丸にあった
三階櫓の案内です。
惜しくも空襲で焼失し、
現在は何もありません。

二の丸角櫓入口。

ルートをGoogleマップで確認。
入り口から櫓近くまで、
黄色で線を付けてみました。
小学校と高等学校の敷地をまるで
「空中回廊」のように突っ切って、
南西角の二の丸隅櫓までを
最短距離で行けるという、
観光客ファーストというか、
超レアものの導線なのです!

空中回廊は、
僕が学校を覗き見しないように(笑)
全て目隠しされていますが、
竹っぽい作りで、
目線に優しい仕様となっています。

途中には休憩用のベンチまであります。

角櫓まで最後の直線。

到着。

二の丸角櫓の礎石。

以下案内です。
「二の丸角櫓の復元に先立って
実施した発掘調査では、
江戸時代後期の角櫓の跡が発見されました。
その中には、明治時代以降に動かされ、
本来の位置がわからなくなった礎石が
7個確認されています。
ここに展示している
3個の礎石はその実物で、
残りの4個は、復元された
角櫓の礎石に使用しています。
いずれも花崗岩製で、転石
(河原などに転がっている石)を利用した
ものと思われます。
一見すると自然の石ですが、
柱を乗せやすいように、
平らに形成してあることが分かります。」
ここでパンフレットを確認。

パンフレット表紙。
外側からは見られないので、
この写真は貴重です。

パンフレット見開き。
平面図を見ると
中央の角櫓から北多聞櫓と
東多聞櫓が続いている形です。

裏面。
実測図や絵図などが残っていた事で、
復元が可能になったと記されています。
昔の「観光目当てだけでもOK」の時代から
「資料に基づく再建以外はNG」と
文化庁の考え方も変わってきた中の再建、
幾つものハードルがあった事でしょう。

北多聞櫓から内部の見学へ。

炭治郎がお出迎え(笑)
ここからは、
パネル解説の気になる部分のみ
書き出していきます。

第1部 水戸城とは。

「水戸城の歴史」。
■大掾氏時代の水戸城
「水戸城がいつ築城されたかは、
はっきりとはわかっていません。
現在のところ、
常陸平氏の惣領となった馬場資幹が、
12世紀末〜13世紀初め頃、
本丸部分に居館を築いたのが
最初と考えられています。
資幹は源頼朝の信任を得て、
常陸国を統治する
常陸大掾の官職を与えられ、
大掾資幹と呼ばれるようになります。
以後、大掾氏は9代200年にわたって
この地に居を構え、
水戸地域を支配しました。」
■江戸氏時代の水戸城
「応永33(1426)年、佐竹氏家臣の
河和田城主・江戸通房が
水戸城を急襲・奪取します。
これを境に、
大掾氏は水戸地域の支配権を失い、
代わって江戸氏が水戸城主として、
7代約160年にわたって
水戸地域を支配しました。
江戸氏は水戸城を
二の丸まで拡張するなど、
土地の造成を積極的に行ったことが
発掘調査によって判明しています。」
■佐竹氏時代の水戸城
「天正18(1590)年、
豊臣秀吉から水戸地域の
支配を認められた佐竹義宣は、
江戸重通が守る水戸城を攻撃し
これを落城、江戸氏は没落します。
やがて常陸国の大部分を領有した義宣は、
本拠地を太田城(常陸太田市)から
水戸城に移し、
新たに下の丸・三の丸の
二つの曲輪を拡張するとともに、
水戸を常陸国における
政治経済の中心地と定め、
城下町の基礎をつくりました。」
■水戸徳川家時代の水戸城
「慶長7(1602)年、
佐竹義宣は秋田に突如国替となり、
代わりに家康5男の武田信吉、
10男長福丸(後の徳川頼宣)、
11男頼房が相次いで城主となります。
この徳川頼房を初代とし、
水戸徳川家が水戸城主となり、
明治に至りました。
頼房は中世以来の水戸城の
遺構を継承しながら、
水戸城下町の大普請を行うとともに、
東西3.5Km、南北約1.2Kmの範囲を
惣構(広義の水戸城)としました。」
ここで書かれた
「佐竹義宣は秋田に突如国替」は、
関ケ原の戦いでは、
「武装中立」という
どっち付かずの態度だった為、
家康から減俸され、
秋田に転封となったのが
実情のようです。
日和見というのが、
結果、家の存続に繋がったのは、
「生き残り戦略」として
ある意味正解だったのかも知れません。

「水戸城内の主な建物と
現代に残る遺構」。

連郭式の縄張りが、
今もよく残っています。

東多聞櫓内部へ。

「水戸城門扉(伝大手門門扉)」。

「この門扉は、
坂東市の万蔵院で発見され、
平成21(2009)年に
水戸市に寄贈されました。
この寄贈をきっかけに
「三の丸水戸城大手門復元の会」が
結成されるなど水戸城復元の
機運が高まりました。
大手門の門扉としては小さい事から
城内いずれかの門扉だったと
考えられています。」
確かに大手門扉としては、
見た目小さいと感じましたが、
これが大手門再建の
きっかけとなり、
僕たちも大手門を体験できたのは、
この門扉のお陰、
門扉を寄贈された万蔵院さんに、
改めて感謝です。

第2部 復元整備のあゆみ

復元のきっかけなど。

復元工事で仕様した部材。

「大手門大棟鬼瓦」

「大手門梁木材」
「岩手県から取り寄せた、
長さ約18mの希少な松の一本物で、
強度・耐久性に優れ、
文化財などに使用されます。
手斧などの伝統的な大工道具を用いて、
表面を調整しています。」

「二の丸角櫓壁構造模型」。

最後にシアターを見て〆。

ここからまた空中回廊へ。

ここから水戸学の道へと戻ります。