二本松城(福島県)二本松少年隊群像

 

妙に達観

150年ほど前、

戊辰戦争で藩の命運に殉じた

二本松少年隊は、

今で言えば中学生位の若者ですが、

あまり知られていないのが、

先の世界大戦時に日本の子供達も

特別な志願兵として、

14〜15歳で「戦死」している事実です。

沖縄では徴兵され

戦死した中学生も数多くいます・・

また、現代でも

世界に目を向けると、

小学生のゲリラ隊員なども普通だし、

年齢問わず、

人間誰もが戦闘員になる可能性は

否定出来ないでしょう。

こうして歴史を俯瞰すれば、

人類は、全く過去に学んではいません(汗)

人の所業というもの、

過去も現在も、そして未来も

変わらないものかと

妙に達観してしまいます・・・

二本松少年隊群像

二本松城訪問目的の一つは、

登城口近くに建つ、

「二本松少年隊群像」です。

にほんまつ城報館から

すぐ裏に位置する二本松城へ。

藩校「敬学館」跡。

戊辰戦争で焼け、

発掘されたのは最近のこと。

沢山の灯明具が発見されたのが、

藩校跡の決め手になったようで、

現在、ここで使われた教科書

1,474冊が残されており

市の有形文化財に指定されている

と書かれています。

二本松城の愛称「霞ヶ城址」の標柱。

二本松少年隊群像とご対面。

案内を書き出すと

以下になります。

「慶應四年(1868)七月

戊辰戦争の最中、

二本松藩大半の兵力が

西軍を迎え撃つべく出陣し、

城内、城下は空虚同然であった。

この緊迫した状況の下、

少年たちの出陣嘆願の熱意に、

藩主は止むなく出陣許可を与え、

十二歳から十七歳までの

少年六十二名が出陣。

七月二十九日、城内への要衝・大壇口では

隊長木村銃太郎率いる

少年二十五人が果敢に戦ったが、

正午ごろ二本松城は炎上し落城した。

この二本松少年隊群像は、

大義のため戦う隊長及び少年隊士と、

我が子の出陣服に藩主丹羽氏の

家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を

万感迫る思いで縫いつける

母の像を表したものである。

なお、この地は

「千人溜(せんにんだめ)」といい、

藩兵が集合する場所であり、

少年隊士もここから

それぞれの守備地に出陣した。」

そして、

ここには秘密兵器が(笑)

準備されています・・

二本松少年隊音声案内。

これがあると無いとでは、

ここでの感動は大違い、

二本松市、

素晴らしいおもてなしをありがとう!

斜め前から。

正面からもたまらんな〜!

少年たちのアップ。

丹羽家の家紋「X」、

直違紋(すじかいもん)の鉢巻が、

胸に迫って来ます・・

勇ましい・・

けど悲しい・・

この銅像の肝はここ、母の像。

少年像との間の生垣がまた絶妙・・・

感情移入しか出来ません・・

箕輪門

少年隊の像に感動&しんみり後は箕輪門へ。

登城路。

登城路左側の高石垣と多聞櫓。

軽自動車が、

この石垣の壮大さを

引き立ててくれてます(笑)

箕輪門右側の石垣と多聞櫓。

以下、箕輪門の案内です。

「箕輪門は二本松城=霞が城の正門にあたり

江戸時代初期城主丹羽光重の建造である。

城下箕輪村山中にあった

樫の大木を主材としたのでこの名がある。

聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は、

十万石大名の威容を示していた。

戊辰戦争によって灰燼と帰したが、

再建の声高まり、

年余の歳月と二億円の費を投じて

昭和五十七年八月に完成をみた。」

箕輪村の人たち、

殿様の住むお城に

自分たちの村の名前が冠せられ、

さぞかし喜び、

誇りに思ったことでしょう。

お城の案内。

「二本松城跡は、15世紀前半、

畠山氏の居城として

築城されたといわれています。

その後、伊達・蒲生・

上杉・松下・加藤と城主がかわり、

寛永20年(1643)に丹羽光重が

二本松藩10万700石で入城し、

以後、丹羽氏の居城として

明治維新を迎えました。

発掘調査によって、

各時代の遺構が見つかり、

さらに近世城郭への大規模な改修が

寛永4〜20年(1627〜1643)の

加藤氏時代に行われたことも判明しました。

二本松城跡は中世城館と

近世城郭が同一箇所で営まれ、

かつその変貌がよくわかる、

東北地方を代表する城跡です。」

加藤嘉明の後を継ぎ、

会津藩主となった加藤明成は、

地震によって傾いた

会津若松城の天守を

七層から五層へ修築したり、

新たな石垣を整備したりと

かなりの積極派でしたが、

支城である二本松城でも

大掛かりな工事を

していたんですね・・

反面、会津藩の財政はめっちゃ逼迫し、

家老とも対立し、

将軍家光さんの調停まで仰ぎ、

その後の改易(領地返上)に

繋がっています・・・

見栄えと財政のバランス、

難しいものだ・・・。

「大城代 内藤四郎兵衛 戦死之地」

「慶應四年、戊辰戦争の際に、

ここで敵勢に斬り込み、

この地で壮絶な死を遂げた」

こんな案内が建つのも

二本松城ならではでしょう・・

箕輪門正面。

城内側から見た箕輪門。

さらに上の曲輪へ。

算木積の隅石を見ると、

ここも加藤ちゃんが

改修したのかも知れません。

左は昔のままで、

右は現代積み直した石垣かな?

左は箕輪門北側のアカマツの古木群。

案内には、

「目通り幹囲が2〜2.5m

樹高9〜12mあり、

長い枝を石垣下に垂らしている。

これらの松は、土塀に代えて

石垣上に植えられたものと思われ、

明暦三年(1657)に

箕輪門周辺石垣の破損を

修理した記録などから推察すると

樹齢は350年を越える。」

このようにあります。

平和な時代、防御施設の土塀なんて

いらないですから。

「最強のコストカット=やらないこと

そもそも、それをなくすことだ」

こんな言葉を聞いたことがあります。

当時の藩主、

丹羽光重さんの名君ぶりが

垣間見えるアカマツたち、

長生きして欲しいものです。

三の丸御殿跡(製糸工場跡)

少し行くと広い曲輪に出ます。

ここは御殿があった曲輪で、

明治になり

製糸工場が建てられています。

山田脩(おさむ)翁銅像。

ここに製糸工場を作り、

世界を相手に貿易した

山田さんの顕彰像です。

遠裡門

三の丸から少し上行くと

遠裡門の案内に出くわします(笑)

御殿への通用門だったそうで、

「裡」という文字は「うら」と読み、

「極秘裡」とかの「裡」なので、

通用門=裏=裡、こんな意味で

名付けられたのかも知れません。

今はな〜んも無い(笑)

二本松藩士自尽の地

雨が降ったり止んだりで、

山上の天守台まで行けるか否か、

自信がない状況の中、

「行けるとこまで行こう」

そう思いつつ

あとは運を天に任せて

登り続ける僕たち。

しかもこの後訪問予定の

大隣寺の閉門時間を考えると

早足しというか、

駆け足しかありません(汗)

少しでもショートカットするため、

雨に濡れ草むした石段へ・・

ひたすら登るだけ(笑)

二本松藩士自尽の地に到着。

「慶応四年、戊辰戦争において、

西軍約7千名に対し、

二本松藩は応援兵を含め千名で戦い、

七月二十九日ついに

城下・城内の戦いとなり

正午頃二本松城は炎上し、

落城しました。

二本松藩の戦死者337名、負傷者71名、

他藩の戦死者200名以上という

戊辰戦争の中でも壮絶な戦いでした。

ここでは、

主戦論者であった家老・丹羽一学、

小城代・服部久左衛門、

郡代・丹羽新十郎の三名が

責任をとり自尽(割腹)し、

壮絶な最後を遂げました。」

このように案内されています。

三人の名が刻まれた慰霊碑に参拝。

(続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Comment

  1. 源能直 より:

    「直違紋」とは、運命、悲劇を背負って立つコトを暗示するやうな、、、、!

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください