三内丸山遺跡(青森市)ガイドツアー・中編

 

ガイドさんメモ

三内丸山遺跡巡りでお世話になった

地元出身のガイド嬢からお聞きした

珠玉のお言葉たち。

iPhone「メモ」に書き殴っていたので

その一部をコピペしてみます(笑)

・ダンボール4〜6万個分の土器が出土

・遺跡の広さは42ヘクタール

・ディズニーランドをちょと小さくした位

・100軒、人口600人

・標高20m

・当時は仙台、山形、福島あたりの気候

・江戸時代の資料にもあった

・八甲田山と岩木山にお祈りしていた

・住居は2週間で作った

などなど・・

ちょと聞いただけでも

めっちゃ中身が濃いのです!

分かりやすく噛み砕いた

ガイド嬢の案内についつい聞き入り、

メモってしまくっていた結果、

これも貴重な思い出になっています(笑)

大人の墓

まずはムラの全体像から。

パンフレットの「ムラのようす」

ガイドツアー前編で書いたのは4まで、

中編では、5の大人の墓から

9の子どもの墓まで見学します。

「大人の墓」の案内板前の

ガラスケースを覗くと・・・

写真上の「大人の墓」の実物を

見ることができます!

また、

案内を書き出すと、

「大人は、地面に掘られた穴(土坑)に

埋葬されました。

土抗墓は道路の両脇に向かい合うように

列状に並んでいます。

墓の中からは、副葬品として

石器やヒスイ製のペンダントが

出土した例もあります。」

このようになりますが、

「ガイドさんメモ」には、

さらに突っ込んだ話が記されています。

・大人の墓には建物を建てない

・静かにするため

これを知る事で、

縄文人の優しい気持ちが

より一層伝わってきますね!

大人の墓全景。

確かにここは静かだ・・・

掘立柱建物

次は掘立柱建物へ。

復元された三棟の掘立柱建物。

案内を書き出すと

以下になります。

「掘立柱建物は地面に柱穴を掘り、

柱を立てたもので、

地面に炉や床などの跡が

見つからないことから、

高床建物であったと考えられています。

柱は約35cmの倍数で

配置されています。」

約5000年前後もの昔、

掘立柱建物があったこと自体、

驚きですし、

「約35cmの倍数」など

当時の土木建築技術には、

敬服してしまいますね。

デザイン的には神社と

あまり変わりないような・・

いや神社建築自体が

古代建物を真似たのだから

こちらが御先祖様ですね(笑)

掘立柱建物の向こうには、

大型竪穴建物が見えています。

いや〜

これも実に素晴らしい!

この建物、校倉あぜくら造りの

「元祖」かも知れません。

ちなみにこちらが、

掘立柱建物から

3〜4千年後に建てられた、

正倉院の校倉造です。

この二つを見比べると

お城の石垣が野面積みから

打ち込い接ぎ、切り込み接ぎへと

進化していった事との

共通点を感じます。

北の谷(低湿地)

ムラの北側、北の谷へ。

「北の谷(低湿地)」

以下案内です。

「北の谷は、縄文時代前期

(紀元前約3,900~3,300年)には

おもにゴミ捨て場として

利用されていました。

水分が豊富なため、

通常残らない動物や魚の骨、

種子、漆器や木製品、編み物、

寄生虫の卵などの

有機質の遺物が良好な状態で出土しており、

当時の環境や食生活などがわかりました。

また、

土留め用の杭列が見つかっています。」

北の谷全景。

北盛土

次に北盛土へ。

案内を書き出します。

「盛土は竪穴建物や穴などを

掘ったときの土やゴミ、

焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが

同じ場所に長期間接続して棄てられており、

小山のように盛り上がっています。

ここでは発掘調査された

当時のまま展示しています。

一面に教き詰められたような土器は

縄文時代中期

(紀前約 3,000年)のものです。

展示している部分はほんの一部ですが、

盛士ではこのような状態で

何層にも重なって広がっています。」

ここも現物が見学できます。

捨てた縄文時にとってはガラクタ、

現代人にとっては、

自分たちのルーツを紐解く宝物。

同じものでも見方が変われば、

価値も180度変わる・・

僕も何か埋めておこうかな?(笑)

子どもの墓

三内丸山遺跡の大きな特徴は、

大人の墓と子どもの墓は、

埋葬地が別だという事です。

案内には、

「子どもの遺体は、

土器に入れて埋葬しました。

棺に使われた土器は、

丸い穴があけられたり、

口や底が壊されており、

煮炊きに使用する土器とは

区別されていました。

中からはこぶし大の

丸い石が出土した例もあります。」

このように記されています。

ここでまた「ガイドさんメモ」登場(笑)

・900人埋葬

・家の周りに埋めた

・子供が死ぬのは水が問題

最後の「水」ですが、

北の谷(低湿地)において、

生活排水を飲んでいたという話です。

現代でも大正時代までは、

水銀の毒性を知らず、

女性が水銀の入った

白粉で病気になったり

授乳の際に口から白粉(水銀)が入った

乳児が亡くなったりしていますから

縄文時代ならば、

致し方ないというしかありませんね・・

子どもの墓。

この後はいよいよ

大型掘立柱建物へと向かいます。

(続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください