思永館・黒門(福岡県みやこ町)

 

敗北から紡がれた歴史

江戸時代、小笠原家の小倉藩は、

外様大名の長州藩毛利氏に対しての

抑えでもありましたが、

幕末の第二次長州征伐(四境戦争)では、

高杉晋作率いる奇兵隊を主力とする

長州軍に小倉城を攻められ降伏、

小倉城と領地を長州に割譲し、

(田川郡)香春かわら藩として再出発、

その後藩庁を豊津に移転、

豊津藩として廃藩置県を迎えています。

徳川家康の血を引く、

小笠原忠真から続く小倉藩(豊津藩)も

長州に敗北した後の戊辰戦争では、

方針転換し(せざるを得なかった)

明治新政府側として参加し、

東北まで兵を出しています。

人間界で起きることは、

常に悲喜交交(こもごも)、

正邪に関係なく、

人々は巻き込まれて行く・・・

敗北から紡がれた貴重な歴史、

その一つが思永館であり黒門なのです。

思永館

思永館は、

学校の敷地内にある建物なので、

ご挨拶のため、

まずは職員室に行ってみましたが、

どなたとも会うことが出来ず、

失礼のないように

自主散策(笑)させていただきました。

まずは外観から。

校門の外からこの色を見た途端妻が、

「ミセスのグリーンだ!!」

こうのたまったのです(笑)

Mrs. GREEN APPLE大好きな

この妻の一言で、

校内に入るか否か躊躇していた僕は、

一気に

「思永館をじっくり見てみよう!」

そう決断したのでした(笑)

ありがとう!Mrs. GREEN APPLE!

そして、妻!(笑)

車寄せアップ。

正面。

「旧福岡県立豊津中学校講堂 思永館」

案内を書き出すと

以下になります。

「思永館は明治初期に小笠原藩が開いた

藩校育徳館に始まるが、

その源流は宝暦八年(1758)当時の

藩主小笠原忠総が開設した藩校思永斎に遡る

長い歴史をもつ学校である。

明治七年に豊津中学校と名乗る様になり、

年を追って諸施設が整備されて行く中で、

昭和三十八年になり、

生徒数が増えるに従って

体育館が建築されるまでの間、

講堂・武道場として使用された。

また昭和四十四年三月に校舎改築に伴い

校舎北側に移設されたが、

保存伝承を図るため

平成五年二月に当地に解体移築された。

一時は老朽化のため取り壊す話もあったが、

本校の同窓生の熱意に支えられ

今日に至っている。

講堂の主屋は寄棟造り、

車寄せは切妻作りで桟瓦葺きである。

内部柱はギリシャ神殿建築の

一様式であるイオニア式を取り入れ、

優美な円柱を立てた構造になっている。

学校建築としては

県内最古の木造風建築物である。」

車寄せの天井、

渋いですね〜!

入れないものの

窓から中はしっかり見えます。

館内の色もぜ〜んぶ

Mrs. GREEN APPLE、

妻は大喜びですよ(笑)

真横から。

妻が見つけた、

藩主、小笠原家の家紋、

三階菱紋があしらわれた燈籠に

二人してテンション爆上げ(笑)

斜後方から。

郡長正ゆかりの石

外観を見終わった頃、

妻が雄叫びを!

「こっちにあるの

鶴ヶ城の石じゃない?」

思永館の左側手前に案内があります。

郡長正ゆかりの石」

情報として知ってはいても、

しっかり見つけるとは、

さすが、

前前世が会津藩士の妻です(笑)

二つの標柱。

右は「郡長正ゆかりの石」

左は「石を贈る詞」と書かれています。

「石を贈る詞」

わかる範囲で書き出すと

以下になります。

「少年武士

郡長正の殉死に敬意をささげ

育徳館自刃の趾に

鶴城苑の古石を選び

萱野家ゆかりの石を添え

道芳の??(ここ読めない)として

出身の地會津の名によって之を贈る

昭和三十一年十月十七日

會津若松市」

思永館の庭に佇む

鶴ヶ城の石と萱野家ゆかりの石。

胸に突き刺さる光景です・・

右側の石の横に植えられた記念樹、

「会津高田梅」。

左側の石には松の木が植樹されています。

立て札などは見当たりませんが、

会津の「アカマツ」でしょうか・・・

黒門

次に、

育徳館正門として建てられた黒門へ。

思永館側(校内側)から見た黒門。

高麗門の特徴がよく分かります。

内側正面。

外側正面。

「黒門」

以下、案内です。

「宝暦八年(1758)

小倉城三の丸に開かれた

小笠原藩校思永齋は思永館となり、

永く藩士の学問所として栄えた。

慶応二年の御変動で長州に敗れた

小笠原藩は香春を経て

明治二年錦原に藩庁を移し、

同三年(1870)藩校育徳館を開校した。

「黒門」は育徳館正門として建てられた。

当初の黒門の位置は育徳館高校現在の

グラウンドの中央部付近といわれる。

廃藩置県後学制も改められ、

明治七年第三十五番中学、育徳学校、

明治十二年、福岡県立豊津中学校となり、

明治二十年県立豊津尋常中学校と改める。

仲津、京都、築城、上毛、

下毛、田川、企救の各郡はもとより、

遠く筑前、肥前の国から

向学心にあふれた若人達が集まり、

文字通り九州北部の最高学府としての

地位を築き、

多くの俊秀がこの門を巣立っていった。

黒門は一時、

真念寺(苅田町)の山門となっていたが、

昭和四十五年この場所に再建された。」

斜から撮影。

ここまでで、学校の散策は完了です。

Mrs. GREEN APPLE好きの

妻の一言がなければ、

全部スルーしていたかも知れなかった場所、

何が幸いするのか、

人生って分からないものですね(笑)

 

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