常磐共有墓地(水戸市)藤田東湖の墓

アナログの効能
広大な墓地の中で、
特定人物のお墓を探す困難さは、
過去の旅でも経験している事で、
今回も限られた時間の中、
ちゃんと全員にお参り出来るのか
少し心配していましたが、
全くの杞憂でした。
予定していたお墓は、
簡単に発見出来たのです!
それを可能にしたのは、
時代の最先端を行く
AI技術や地図アプリ・・
ではなく、
古代から使われているものです(笑)
のぼり〜!
こちらは藤田東湖の後に参った、
水戸黄門の格さんの墓の幟ですが、
これはかなり遠くから
ズームで撮影しています。
要するに全く違う場所にいても
この幟さえ見つければ、
容易に目的のお墓に辿り着くのです!
思わぬアナログの効能に
超感動した僕たちなのでした(笑)
案内板
水戸藩が勤王であったことは、
理解しているつもりでしたが、
案内板を見ると、
ほぼ知らないことだらけでした(笑)
袋田の滝から車で1時間ほど南下し、
水戸市の常磐共有墓地に到着。
水戸黄門格さんの墓、藤田東湖先生の墓、
関鉄之介の墓、藤田小四郎の墓、
いきなりの墓案内、痛み入ります!
案内板は新旧の二つあり、
まずは「旧」の確認へ。
案内板の上部には、
墓地で眠られている
主な水戸藩士のお名前が、
お一人お一人記されていて、
これが単なる案内板ではなく、
「墓碑銘」的な役割も果たしています・・・
「常磐共有墓地(水戸市指定史跡)」
「この墓地は、寛文六年四月(1666)、
水戸徳川家二代藩主
徳川光圀公(諡義公)より
家臣に賜った墓地であります。
光圀公は、生涯の大事業とされた
修史の編纂「大日本史」を通して、
我が国の皇道精神の発揚と
水戸教学の源流を開拓し、
王政復古への大業の指南となられたことは
遍く知られたところでありますが、
一方、藩政においても、
諸制度の整備、士風の育成、
民生の安定、産業経済の振興、
城下の市政等高邁な識見により
仁政を施されました。
就中、宗教界の混乱には深く憂慮され、
神仏習合を禁止して迷信邪教淫祠を打破し、
純正な信仰を打ち立てようとして、
寺社の改革を断行されました。
その一環として葬祭の簡素化を図り、
家臣に仏式の葬礼法要に対して
自葬祭を勧め、
「喪祭儀略」を編集して、
葬祭の仕方を教え、墓石の大きさ、
形までも規定して、
切に奢侈に流れぬよう戒められました。
爾来三百有余年私どもは
このご下賜の趣旨を堅く守り、
特定の寺院に属さない諸宗の
共有墓地として今日に至っております。
墓地には、先賢志士、
贈正四位安積澹泊先生並びに
贈正四位藤田東湖先生を始め、
水戸藩士壱千有余の御霊が祭られ、
四季香花の絶えることのない
霊地であります。」
驚きました・・
黄門様(水戸光圀公)、
めっちゃ独創的な事やってたんですね!
これらは現代の簡略したお葬式の
先駆け的なものでもありますから
黄門様の先見性、
敬服するしかありません。
「新」案内板。
旧板と内容が被る部分もありますが、
抜粋してみます。
「光圀は藩内において
さまざまな宗教改革を行う中で、
仏教による葬祭を改め、
儒教による葬祭である
「儒葬」を普及させるため、
常葉村と坂戸村の地に
広大な墓地を設定し、
藩士にここで儒葬を行うことを命じた。
こらが、
常磐共有墓地と酒門共有墓地である。」
黄門様の示した「喪祭儀略」の一部。
ここまで細やかな気遣いというか
指示というか、
家臣たちはちょと大変だったかも?(笑)
藤田小四郎の墓
まずは幕末、
天狗党の乱で敦賀に於いて
処刑された藤田小四郎の墓へ。
既に幟が見えていますので、
場所の特定は超簡単!
入口。
参拝。
ステンレス製の標柱には、
「筑波義挙主導者」の文字が。
己の信じる道を進み、
そして散った・・
その後、幕府は倒れ、
明治維新となって、
名誉を回復され、
従四位が贈られています。
人の善悪なんて時の政権で、
180度変わるもの・・デス・・
二十四歳か・・若い・・
歴史を紡いでくだり、
ありがとうございます・・・
藤田東湖の墓
次に藤田小四郎の父、
藤田東湖のお墓へ。
幟を探しながら、
奥に進むと・・
お〜あった〜!
ついでに足元の道案内も発見。
幟をロックオン!
凄いぞアナログ(笑)
無事到着。
右から藤田東湖の父、
藤田次郎左衛門一正(藤田幽谷)、
その夫人、
藤田東湖、その夫人の墓。
「藤田東湖の墓」
案内を書き出すと
以下になります。
「藤田東湖は、近世後期の
水戸藩を代表する学者・思想家である。
文化3(1806)年、
幽谷の二男として
水戸城下の梅香に生まれ、名を彪という。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭の腹心として、
弘道館建学を始め
藩政改革に取り組むとともに、
幕政にも関与した。
著作「弘道館記述義」「回天詩史」や
詩作「正気歌」は、
尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。
安政2(1855)年、安政大地震に遭い、
江戸にて圧死(享年50歳)。
その後は各方面から惜しまれた。」
地震で圧死・・・
人の一生は儚い・・・
「藤田誠之進彪(藤田東湖)」
息子の小四郎より上の
正四位が贈られています。
藩政改革功労者。
こちらは藤田東湖の父、
藤田次郎左衛門一正(藤田幽谷)の標柱。
「彰考館総裁」
幽谷さんは商人の家に
次男として生まれながらも
水戸藩の重要人物になった、
立身出世の見本みたいな人で、
彰考館とは徳川光圀が始めた
大日本史編纂の本拠地ですから
ここの総裁とは凄いで事ですよね!
士農工商の身分制度はあれど、
結局は頭一つで、
身分を超えた活躍が出来たのは、
現代と変わらないかも知れません。
お邪魔します・・
藤田東湖と夫人に参拝。
藤田幽谷と夫人に参拝。
(続く)