高伝寺(佐賀市)副島種臣の墓

 

お墓探し

歴史上の人物のお墓へお参りする時、

悩ましいのが、

お墓までの道案内が、

設置されていない場合と、

場所は特定できても

墓石に刻まれた名前が、

知っている名前と違う場合です。

そして、

今回は後者でした(笑)

副島種臣と同じ墓域にあるはずの

種臣さんの実兄、

「枝吉神陽」の墓石が、

どうしても見つからないのです・・・

そして、妻と共に探し当てたのが、

「贈従四位 故枝吉經種」と刻まれた

墓石です。

枝吉神陽さんの本名は、

枝吉經種だったんですね〜!

見つかって良かった(笑)

副島種臣・枝吉神陽の墓

高伝寺の本堂を参拝後、お墓へ。

お二人の墓は本堂の左奥です。

道案内は完璧!

墓域のエントランスでは、

樹齢百年の銀杏が、

お出迎えしてくれます。

お墓に到着。

真正面が副島種臣の墓で、

こちらはお兄さんと違い、

立派な案内も設置されています。

枝吉家から副島家の養子となったので、

お兄さんと苗字が違うのですが、

この事実、

僕は最近知りました(笑)

副島種臣(右)と

律子夫人(左)の墓に参拝。

ちなみに副島種臣のお墓は、

東京の青山霊園にある

神道式のお墓がメインで、

佐賀のお墓はその後に、

造られたものだそうです。

次に左奥の石碑へ。

「枝吉神陽先生顕彰碑」

お墓よりも顕彰碑が先になりました(笑)

「枝吉神陽先生顕彰碑について」

「幕末佐賀藩の思想家、

枝吉神陽の義祭同盟(政治結社)は

討幕思想の魁として佐賀藩に及ばず、

吉田松陰や討幕の志士の

思想と行動にも影響を与えたとされる。

枝吉神陽先生顕彰碑の文は

神陽の実弟、

副島種臣による格調高き選文として

「滄海全集巻六」に収められている。

碑文背面には本顕彰碑建立の

発起人として大隈重信を始め

幕末から明治に活躍した

三十六名の陰刻がされている。

平成十三年、神陽の墓所整備の折り

本所への碑文移転がなされた。

平成二十三年九月吉日

高傳寺四十三代住職設」」

このように記されています。

続いて、

「大隈重信発起

神陽先生神道碑銘」

長〜い碑文を超訳すると

「天下は幕府のものではなく、

天皇の治めるものであり、

討幕して、衰退した国家を

挽回することが必要であると説く。

神陽先生の容貌は立派で、

声は周囲が震えるほどに大きく、

眼光は爛々と輝いていた。

また毎日40キロほど歩いても、

また、富士山に登っても

疲れない程の健脚である。

早く亡くなっていなければ、

明治政府では大いに活躍したはずで、

誠に惜しいものである・・・

先生は文政五年五月二十四日生まれで、

文久二年八月十四日をもって没す。

享年四十一、高伝寺に葬られる。」

とにかく難しい文章で、

大幅に端折っています(汗)

41歳という若さで亡くなった神陽さん、

Wikipediaによれば、

「コレラに罹った妻を

看病するうち自身も罹患し、死去」

このように記されています・・

公には、天下国家を論ずる

偉大な思想家でも

家庭内では心優しい、

愛妻家でもあったのでしょう・・・

何とか見つけた、

枝吉神陽のお墓に参拝。

 

 

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