斗南開発の館・徳玄寺(むつ市)
胆力
戊辰戦争で会津藩が降伏したのが、
元号が慶応から明治に変わった二週間後の、
明治元年(1868)九月二十二日。
会津藩主松平容保の長男で、
後年、斗南藩主となった容大の誕生が、
翌年の明治二年(1869)六月三日。
戊辰戦争の真っ只中、
容保さんはたとえ自分がこの戦で
死んだとしても子孫を残し、
家名を存続させるという使命感あっての
長男誕生だったのかも知れません。
後醍醐天皇が逃走中など逆境の最中でも
子作りに励みまくった例を挙げるもなく、
「常に明日を見据える人」には、
自身が置かれた最悪の状況を俯瞰し、
あるいは、一時的に忘れ、
日常と変わらぬような生活ができる
「胆力」というものが、
備わっているのでしょう。
山門
斗南藩の藩庁が置かれた円通寺の
すぐお隣に、徳玄寺はあります。
敷地内に駐車し山門へ。
山門と板塀。
古そうな門ですが、
建立年代などは不明です。
彫刻は牡丹。
案内板
山門をくぐるとすぐ右側に
案内板が立っています。
「斗南開発の館 徳玄寺」
以下案内文です。
「表高二十三万石を誇り、
奥羽第二の雄藩であった会津藩は
全国諸藩の中でも
最も勤王の志が厚かったにもかかわらず
明治維新の最に朝敵の汚名を着せられ
全国唯一の移封処分を受けて
ここ斗南の地へ挙藩流罪となりました。
ここ徳玄寺は藩主松平容大公の
食事や遊びの際に使用された場所です。
当時の容大公は
数え年三歳ではありましたが
移住藩士達を激励する為に、
各地を回村するなど、
新天地開発に励む人々の
大きな心の支えとなったのでした。
またここは重臣の会議場でもあり、
様々な施策についての論議が
重ねられた所でもありました。
東北の長崎を目指した大湊の開港や
種々の産業開発など、
卓越した構想と意欲は
廃藩置県後も斗南の地に
とどまった人々に希望を与え
新生青森のあらゆる方面において
会津魂は、
大きな功績を残したのでした。」
とにかく、
熱心な勤王なのに、
逆賊になってしまうという悲劇、
人の運命とは、
かくも過酷なものなのか・・・
そんな思いに駆られる案内ですが、
周囲には、
僕の心を癒すかのような
素敵な光景が広がっています・・・
綺麗に咲いたアイリス(多分)
アイリスの花言葉は「希望」。
一度は取り潰されたものの、
斗南藩として復活を遂げた
事実にスポットを当てると、
ここにドンピシャな花ですね!
そして、も一つ・・
真っ赤なひなげし。
花言葉は「感謝」「慰め」だそうで、
こちらも
斗南藩の歴史を感じるこの場所に
ピッタリでしょう・・・
本堂
手水が見当たらないので、
ありのままで(笑)
本堂へと向かいます。
鐘楼。
右横に建つのは、
墓域で眠るむつ市出身の映画監督
川島雄三の碑です。
まずは郷土の英雄にご挨拶。
本堂へ。
参拝。
記念のツーショットで訪問完了です。