会津藩主松平家墓所・入之峰

 

呼び名

会津藩主松平家墓所は、

院内山という山の中にあるので、

「院内御廟」と呼ばれています。

この文中で、何度も

「会津藩主松平家墓所」と書くのは

長すぎるので、

ここからは院内御廟と書く事にします。

短い呼び名があって、

本当に助かります(笑)

参道

ここで院内御廟(墓所)の絵地図を確認。

左下の「現在地」(入口)から

西之御庭、中之御庭をお参りした後、

メイン参道を登って、

松平容保含め5人の藩主の墓がある

院内御廟で一番高い場所、

入之峰へと向かいます。

左が本参道、

右へ行くと拝殿があり、

その先を登ると

四代容貞と八代容敬の墓域になりますが、

今回もこちらには行きません(ゴメンね!)

右が入之峰への本参道、

左は二代藩主正経の墓への参道。

正経さんには昨年お参りしたので

今回はここから遥拝のみで失礼します。

ちなみにこちらが、

昨年の参拝時に撮影した

正経さんのお墓で、

藩主のお墓の中では、

唯一「仏式」で葬られています。

まだまだ続く石段。

もうすぐゴール!

入之峰

松平容保さんのお墓参拝の前に、

向かって右から四人の藩主へ

お参りします。

表示もあってわかりやすいですね。

案内を抜粋すると

以下になります。

「院内山の頂部にある

歴代藩主の墓所のうち、

3代墓所から西側が

入之峰と呼ばれています。

ここには、東から

3代・5代・6代・7代・9代藩主の

墓所があります。

院内御廟では、

3代藩主以降が神式で葬られています。

いずれの墓所も構造は同じで、

手前側から碑石、表石があり、

もっとも奥に直径20〜30mの

八角形の墳丘の上に鎮石が

設置されています。

この鎮石の下に藩主らが葬られています。

石造品では、亀趺きふの上に乗る碑石には

藩主の業績、表石には官職名と名前、

鎮石には霊神号が刻まれています。

墓の参拝は、燈籠のあるところで

神官や藩主の名代などが行い、

他の人は碑石の脇の方形に

石で囲まれた場所で行っていました。」

丁度この時、

木々の間から夕陽が

入之峰全体を照らし始めたのです。

なんか、

歴代の藩主さんたちが

歓迎してくれているに違いないと

勝手に喜んでしまいました(笑)

そしてここからは、

東から西へ、

歴代藩主へとお参りです。

三代・松平正容まさかた墓所に参拝。

こちらだけは昨年の訪問でも

お参りしています。

「初代藩主保科正之の子で、

元禄九年(1696)に

松平の姓と葵の紋を賜りました。」

(案内より)

亀趺(亀石)の上に乗る碑石。

お墓を向く亀ちゃんのお顔。

手前から5代・6代・7代の亀ちゃん達。

碑石には切妻屋根が付いています。

五代・松平容頌かたのぶ墓所に参拝。

「漆器や酒造りなど

産業の発展に尽くすとともに、

藩校日新館を開き

人材の育成に努めました。」

(案内より)

ここから三つの墓所は、

江戸時代ならば、

神官や名代しか入れなかった段上の

燈籠や碑石、表石、鎮石の近くでも

お参りが出来たので、

その時の写真も一緒に載せます。

奥には鎮石も見えています。

これを下から睨みつけて・・

じゃなく、

優しく見つめているのが、

こちらの亀ちゃんです。

しっかり容頌さんを守っていますね!

六代・松平容住かたおき墓所に参拝。

「父容詮が五代藩主の

養子になっていたため、

父の死後に藩主となりましたが、

その後五ヶ月で死去しました。」

(案内より)

段上の墓石など。

亀ちゃん。

お顔は3代〜5代とほぼ同じですね。

ここで妻が気づいたのが

こちらです。

亀ちゃんの甲羅でお休み中の

シオカラトンボ。

容住さんが来てくれたのかな?(笑)

七代・容衆かたひろ墓所に参拝。

「松平容住の子で、

わずか四歳で藩主となりました。

この時期に蝦夷地などで

北方警備を行いました。」

段上の墓石・鎮石に参拝。

亀ちゃん。

参拝した四人の藩主たちの墓域、

改めてその規模の大きさを見て、

ため息が出ますね。

そしてここからは、

いよいよ戊辰戦争、悲劇の主人公、

松平容保さんの墓へと向かいます。

(続く)

 

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