会津若松城(鶴ヶ城)(4)
ラッキー?(笑)
会津若松行きの手配を終え、
少し経った3月初め頃、
会津若松城(鶴ヶ城)の情報でも
確認してみるかとネットを開くと、
「現在リニューアル工事中。
プレオープンは4月1日で、
4層5層のみ入場可能、
全てが入場できる
グランドオープンは4月28日。」
このように書かれているのです。
僕たちが訪問するのは、
4月13日・・・
相変わらず「事前調査」をしない癖が
出てしまったのですが、
まあ、
展望できる最上階には入場可能なんで、
「ラッキー」?でOKでしょう(笑)
天守内部へ
外観などの散策を
全く終えないまま(笑)
営業時間の関係上、天守内部へ。
燦然と輝く鶴ヶ城。
天守南東側。
蒲生氏郷の築いた野面積みの石垣、
素朴ながらも逞しくて、
相変わらず見惚れてしまいますね。
天守東側、ここが入り口です。
まるで古墳に入るみたい(笑)
地下の塩蔵から入るのですが、
最近リニューアルした岡山城も
同じ塩蔵から入る構造でした。
「俺こんなに塩持ってるぜ!」
な〜んて、塩蔵を見せたい城主が
多いのかな?(笑)
若松城を支える石垣。
野面積み、打ち込み接ぎ、
切り込み接ぎの説明です。
塩蔵の野面積み石垣。
塩蔵とは。
「天守閣で見ることが
できる唯一の遺構」
「天守閣の土台となる石垣は
「天守台」と呼ばれる。
鶴ヶ城の天守台は、
城跡公園内で最も古い
石積みと考えられている。
内部は空洞になっていて、
一年を通じて周囲よりも
冷涼な環境であることから、
江戸時代には「塩」を貯蔵しており
「塩蔵」と呼ばれていた。」
と言うことで、
塩蔵からの入城は、
城主の自慢ではありませんでした(笑)
天守解体。
戊辰戦争で満身創痍になりながらも
持ちこたえた天守の姿が、
たまらんですね!
再建されて良かった!
天守内部の案内。
冒頭に書いたように
まだプレオープン中なので、
僕たちは四層からの見学となります。
一層と二層のシャッターを記念に撮影(笑)
三層
三層はまだオープン前ですが、
「出来たところは、公開しよう!」
そんな方針なのでしょうか、
会津戦争について、
時系列でまとめているものが
拝見できて、
こちらもラッキーでした。
「日ごとに追う会津戦争」
会津戦争があった期間は
1868年(慶応4年)
8月23日〜9月22日。
「新政府軍は、猪苗代方面の
白虎隊士の防御線を破り
城下へ進軍。」
戦争初日の8月23日、
白虎隊は自刃・・・
この日だけで会津藩の死者は500人超。
女性も戦った・・・
「砲弾の合間に子どもたちが
凧揚げをすると、
誰もが勇気付けられた」
・・・凄まじい光景ですね・・・
ただし、
戦争とはそんなもの、
生きとし生けるものもの全ては
戦うしかないのですから。
子どもを危険に晒した親は
馬鹿だと思うのは、
平和ボケの証拠でしょう。
「9月4日
会津新撰組が全滅・・・」
「9月12日
この日撃ち込まれた砲弾の数、
1208発と記録」
「山本八重が砲弾を分解して、
(松平)容保に西洋式を説明する。」
戦争の真っ最中に
説明されたのでしょうか・・・
「9月19日
被害も甚大となり、
容保は降伏の意思を固め
薩摩・土佐藩へ伝える」
「9月22日
北出丸に「降参」の白旗が立つ
追手門への道路上で降伏式
容保らは藩士たちに別れを告げ謹慎先へ。」
遂に降伏・・・
パネル右側、
赤い旗の写真には、
「降伏式に敷かれた緋毛氈
降伏の無念と悲嘆の象徴となった
緋毛氈は”泣血氈”と名付けられた
無念を忘れまいと式後に藩士たちは
小さく切り分け持ち合った」
このように書かれています。
そして、
こちらが「まとめ」的なパネルです。
会津戦争に至るまで。
会津藩領へ。
白虎隊十九士。
「飯盛山の中腹にようやく
たどり着いた時には
16名になっていた隊士たち。
銃声が飛び交い黒煙上がる城下をまえに、
隊士たちは打ちのめされた。
戸ノ口原での
初めての実戦で目の当たりにした
新政府軍との圧倒的な戦力差や、
雨の中の激戦と敗走で
心身とも疲労困憊だった。
この先自分たちに
どのような選択が残されているのか。
隊士たちは話し合いの末、
主君に殉じ武士の誇りを守るために
自刃するという道を選んだ。
最後まで武士であることを
貫いたのである。」
案内文は
「鶴ヶ城が落ちたとは
認識していなかった」
という「新説」も
少し取り入れているようですね。
工事中の一部も展示されています。
敗戦後の苦難。
「斗南藩成立」
「明治2年11月、
松平容保の嫡子慶三郎(のち容大)が
家名再興を許され、
会津領を没収された代わりに
旧南部藩寮の
下北地方・五戸地方を新しく
領地として与えられた。
この本州北端の地は
「斗南」と名付けられ、
旧会津藩士と家族たちは
この地に移り住むことになった。」
人の世というものは、
「勝てば官軍、負ければ賊軍」
負けた方に人権はありませんから・・・
これって、昔も今も、
そして未来も同じでしょう(笑)
(続く)