阿弥陀寺(会津若松市)

 

予定を入れ替え

会津若松の旅2日目、

ホテルを出発し

中野竹子最後の地、

「涙橋」を目指していると

通りすがりで後ほど訪問予定だった

「阿弥陀寺」を発見。

「先に行こう!」との

妻の指南で急遽予定を入れ替え、

その後の散策がよりスムーズに。

柔らか頭の妻(笑)グッジョブです!

七日町浪漫デッキ駐車場

阿弥陀寺境内の駐車場に入ると、

「檀家専用駐車場」との表示があり、

斜向かいの有料駐車場へ。

「七日町浪漫デッキ駐車場」

なんだか素敵なネーミングです!

どんな浪漫が待ってるのかな〜?

な〜んて思っていたら、

いきなり浪漫の渦中に!

「デッキ」の端に神社が!

この土地に古くからある神祠でしょう。

駐車場に向かってお参りする形になるので、

神社の先に停めた車にも感謝を込めて参拝。

なんだか阿弥陀寺の祓戸神社というか、

めっちゃ心が整いますよ!

会津東軍墓地

駐車場の周辺は、

タイムスリップしたかのような

レトロな建物が並んでいます。

ここは七日町通りといい、

藩政時代には会津五街道のうち、

下野(日光)、越後、米沢の3つの

街道が通る重要な道路で、

会津を代表する繁華街だったと

書かれています。

撮影スポットマークが付いていたので

会津郷土料理の店、渋川問屋を撮影。

阿弥陀寺へ。

会津東軍墓地入口。

案内を抜粋すると

以下になります。

「会津戊辰戦争では

多くの戦死者を出しました。

境内の東軍墓地には

会津藩など幕府軍兵士の遺体

1281体が埋葬されています。

本堂左手にある木造3階の建物は

「御三階」と呼ばれ、

鶴ヶ城本丸の藩主御殿の

庭にあったものです。

明治3(1870)年に

この地に本堂として移築されました。

かつて東軍墓地山門入口の左手に

大きな大仏様がありましたが、

太平洋戦争で供出され、

今では台座が残るだけです。」

案内の「大仏なき台座」。

日本全国至る所に

金属供出で「主」を失った

悲しい台座を見かけますね・・

お顔だけ残った上野大仏は、

超ラッキーな方でしょう。

境内。

墓地へ。

左右の燈籠について

阿弥陀寺の案内によると

「鶴ヶ城の南に家康を祭る東照宮があり、

そこにあったと伝えられる石燈籠で、

明和5年(1768)

との年紀が刻まれている。

戊辰戦争のあと東照宮は

破却されたが燈籠だけは

のちにこの場所に移された。」

このように書かれています。

参拝。

墓石は左右二つ。

「戦死墓」。

賊軍とされた旧幕府軍(東軍)の墓は、

明治新政府を憚ってか

単なる「戦死墓」として

表記される場合が多く、

今年初めに参拝した

上野の彰義隊の墓も同じでした。

こちらが彰義隊の墓で、

「戦死之墓」と刻まれています。

向かって左側は、

明治十年の西南戦争に従軍した

佐川官兵衛以下の慰霊碑または、

顕彰碑のようです。

鶴ヶ城のパネルでも紹介されている

佐川官兵衛は、

熊本の阿蘇で戦死されています・・

参拝を終えた後、

奥の木陰に隠れるように建つ

もう一つの石碑を発見。

正面からは確認出来ませんが、

墓所の横から見ると、

「萱野長修」の文字が

見えるではないですか!

戊辰戦争の責任を一身に背負い、

切腹(斬首)された

家老の萱野権兵衛ですよ!

後ほど権兵衛さんお墓に行く予定でしたが、

「遥拝碑」と刻まれていますので、

まずはここから遥拝を完了。

正面からはほぼ見えないように

遥拝碑を建てたのは、

こちらも新政府を憚った

結果かも知れません・・

会津東軍墓地の横に逹つ、

新撰組隊士 斎藤一(藤田五郎)の墓。

以下案内の抜粋です。

「鳥羽伏見の戦い等を経て、

会津若松城下に入り

負傷した土方歳三に代わって

新撰組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。

しかし西軍が城下に迫った時、

「会津候(松平容保)あっての新撰組、

会津を見捨てることは出来ない」と

会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。

会津藩降伏後は、

明治三年斗南に移り藤田田五郎と改名。

その後上京し警視庁に入り、

容保の媒酌により

会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。

警視庁においては

西南戦争へ出陣するなど活躍、

1915年(大正四年)七十二歳で逝去。

後半生を会津人として生きてきた

本人の希望により

ここ阿弥陀寺に眠っている。」

いや〜この人、

真の武士(もののふ)ですよ!

そして、

松平容保さんの人望もあったのでしょう。

会津東軍墓地の裏側、

御三階の横に建つ

黒川伝五郎の墓(右側)。

以下、案内の抜粋です。

「武芸百段を極め、藩校日新館で

武芸指南役を務めていた。

長州・萩に招かれたこともあり

嘉永五年(1852)に

吉田松陰が会津を訪れたとき、

ひそかに日新館を見学させた。

会津成辰戦争で長男義次は戦死、

次男義兼は負傷。

西軍が城下に攻め入った

慶応四年(1868)八月二十三日、

伝五郎は次男を介錯した後、

自決した。六十五歳だった。」

この日僕たちは、

吉田松陰が参拝した、

心清水八幡神社へも行ったのですが、

黒川伝五郎との交流があったのも

松蔭が会津に来た理由の

一つかも知れませんね。

御三階

阿弥陀寺訪問の目的は、

東軍墓地の参拝と御三階を見ること。

正面。

唐破風の部分はお寺に移設時、

付け足されたものです。

案内を書き出すと

以下になります。

「江戸時代の建築で、明治初年まで

鶴ヶ城本丸にありましたが、

明治3年にこの地に移されました。

外観は3階ですが、

内部は4層になっており、

2階と3階の間に

天井の低い部屋があります。

3階に上る梯子は

用のない者が上がれないように、

上から引き上日仕組みになっており、

当時は密議所に

使用されていたと思われます。

また、本丸北東の正方形の石垣の上に

建っていたところから、

物見や展望台の役目を果たしていました。

戊戦争の戦火で

阿弥陀寺が焼失したために、

長く本堂として使用されてきました。

玄関の唐破風は

城内本丸御殿の

玄関の一部を配したものです。

鶴ヶ城の遺構として

唯一残る貴重な建物です。」

鶴ヶ城天守から見た

御三階が建っていた場所。

(白丸で囲んだ所です)

御三階跡。

立派かつ風流ですね!

鶴ヶ城の遺構として

再移設して欲しい気もしますが、

東軍墓地の皆様はじめ

多くの御霊たちの心の拠り所に

なっている事を思えば、

今ここに建っていることこそが、

御三階のあるべき姿かとも

思ってしまいます・・・

本堂

まさか、

本堂参拝が最後になるとは(汗)

ご本尊様、ごめんちゃい!

参道入口。

右は燈籠でなく五輪塔です。

ようやく本堂に参拝。

阿弥陀寺訪問はこれにて完了です。

今日の注目

本堂の縁側で見つけた文鎮に注目。

これはいい〜!

三つ葉葵の文鎮に、

テンション上がった二人です(笑)

 

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