彰義隊の墓(東京都)

 

西郷隆盛と彰義隊

上野公園の西側には

戊辰戦争の戦いの一つ、

上野戦争での勝利者である

西郷隆盛の銅像と、

敗者である彰義隊のお墓が、

距離を置くことなく建っています。

両者に共通するのは、

上野戦争で戦った敵同士である事と、

靖國神社に祀られていない事。

上野戦争では勝利者だった西郷さんも

その後の西南戦争で、

明治政府に反逆したため、

賊軍扱いなのです。

ちなみに会津藩の白虎隊

佐賀藩の江藤新平なども

同じ理由で祀られていません。

これを持って

了見が狭いなどと言う勿れ、

勝てば官軍、

人間の世界とは大方において

この程度ものですからね(笑)

壁泉(黒門跡)

天海僧正毛髪塔からさらに西へ歩き、

上野公園の入り口付近、

かえるの噴水へ。

噴水は、

噴かない水になってます(笑)

噴かない水を背にして(笑)

上野戦争最大の激戦地、

黒門跡方面へ。

黒門跡に建てられた壁泉。

案内を要約すると

以下になります。

「この壁泉は、かつてこの地にあった

「黒門」の姿を表現しています。

黒門は寛永寺の総門です。

かつては現在の上野公園のほぼ全域が

寛永寺の境内でした。

幕末の上野戦争で、

最も激しい戦いが行われたのは、

黒門付近です。

焼け残った黒門は明治40年

彰義隊の墓所がある

荒川区の円通寺に移築されました。」

円通寺、

やはり行ってみたいですね・・・

ただの造形物と思うのか、

妻は興味なさそうです(汗)

確かに、当時の殺戮の酷さなど

微塵も感じませんから

そう思うのも仕方ないかも知れません。

西郷隆盛像

次に、

日本一有名な銅像と言ってもいい

西郷隆盛の銅像へ。

広い石段。

石段を登りきって妻が気付いたのは、

西郷さんの銅像の手前に見える

「UENO3153」の文字です。

「さいごうさん」なんですね!

やっぱりシャレは楽しいもの(笑)

銅像に到着。

以下、案内の抜粋・要約です。

「西南の役で敗れ自刃した西郷隆盛は

一時逆賊とされたが、明治二十二年二月、

明治天皇の特旨により賊名を除かれ、

正三位を追贈された。

この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、

吉井友実が、建立を計画したものであり、

明治三十年竣工、

我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。」

名誉を回復されたとは言え、

恐らく賊軍の西郷像を建てるにには、

様々な問題もあったでしょう・・

そして、関東大震災も、

第二次大戦の金属供出も

米軍の空襲も免れて、

今でも元気にここに建つ西郷さん、

やはり何か「幸運」を持っています。

正面。

銅像アップ。

左横。

後ろ。

ヨドバシカメラを見つめる西郷さん(笑)

彰義隊の墓

西郷像の近くの建物壁には、

こんな絵があります。

右は江戸時代の

東叡山寛永寺の境内図、

左は明治維新後の上野公園の図で、

両者は同じ場所なんですが、

上野戦争の結果、

広大な寛永寺の寺域は没収され、

その多くが公園になっています。

西郷像から徒歩0分、

彰義隊の墓が見えてきます。

案内を抜粋・要約すると

以下になります。

「慶應四年五月十五日朝、

大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、

彰義隊は同夕刻敗走した。

いわゆる上野戦争である。

彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、

南千住円通寺の住職仏磨らによって

当地で荼毘に付された。」

言葉だけではあまり悲惨さが

伝わりませんが、

当時の敗軍兵士の遺体は

基本、野晒しです・・・

遺体収容なんてすると

「お前も賊軍か!」

などと殺されるかも知れませんし・・

だから円通寺の住職さんは、

命懸けの行動だったのでしょう・・

玉垣内の墓域へ。

墓所全体像。

もう一つの案内。

先ほどの案内と重複する部分を除き、

後半部分を少し抜粋します。

「生き残った小川ら隊士は、

明治七年(1874)ようやく

新政府の許可を得て、

激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった

当地に彰義隊戦死の墓を建立した。

なお、遺骨の一部は

南千住円通寺内に合葬されている。

以後、百二十年余りに渡り、

小川一族によって墓所が守られてきた。

現在、歴史的記念碑としてその管理は

東京都に移されている。」

小川さん、

めっちゃ凄い方ですね!

そんな人がいたから

僕たちも参拝できたのです。

ただただ感謝・・・

参拝。

墓石は上下に、

大小二つあります。

「戦死之墓」と刻まれた大きい方の墓石。

これについて、

最初の案内板から抜粋すると

「大墓石は、

明治十四年(1881)十二月に

元彰義隊小川興郷らによって造立。

彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、

政府をはばかって彰義隊の文字はないが、

旧幕臣山岡鉄舟の筆になる

「戦死之墓」の字を大きく刻む。」

このようになります。

下に安置された小さな墓石。

こちらには「彰義隊」の文字が

しっかり刻まれています。

最初の案内板から抜粋すると

「正面の小墓石は、

明治二年(1869)寛永寺死因の

寒松院と護国院の住職が

密かに附近の地中に埋納したものだが、

後に掘り出された。」

このようになります。

「地中に埋納」・・・

このフレーズだけで、

当時の状況が全てわかりますね・・・

この後は、

上野戦争で運よく生き残った

寛永寺の伽藍の一つ、

清水観音堂へと向かいます。

 

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