佐野常民生誕地(佐賀市)
佐賀の七賢人
「佐賀の七賢人」とは、
幕末から明治維新に活躍した、
鍋島直正、佐野常民、島義勇、
副島種臣、大木喬任、江藤新平、
大隈重信の七人を言いますが、
Wikipediaによると
「佐賀の七賢人」という言葉が
使われ始めたのは、
昭和56年ごろからであると
書かれていて、
思った以上に最近だったのです。
ところが、
佐野常民生誕地に来て、
それがもっと古くから
使われていることがわかりました。
それは、昭和43年に書かれた
由来の中に佐野常民の経歴に、
「本県七賢人の一人であり」と
案内されていたからです。
「七賢人」という言葉の発祥、
これで、Wikipediaよりも
13年遡ることに成功!
だから何なんだ?という話ですね(笑)
佐野常民生誕地へ
佐野常民記念館から
5分ほど歩けば
佐野常民生誕地です。
生誕地の全景。
一言では表現できないほど
多くの功績を残した佐野常民ですが、
生誕地での肩書は、
「日本赤十字社の創設者」となっています。
正面入口。
由来。
この中の一節に注目。
「大給恒(おぎゅう ゆずる)らと共に
博愛社を創立した」
この大給さん、
なんと、江戸時代末期、
函館の五稜郭と同じ、
星形要塞(西洋式のお城)である
長野県の龍岡城を作ったお殿様でした!
やはり先見の明というのか、
時代を先取りする聡明な人の行動は、
凡人には想像ができないものがあります。
蒸気機関車や蒸気船を作った
佐野常民の先進的な思想と
意気投合、一致するところがあっての
博愛社(後の赤十字社)
創設となったのは
想像に難くない所でしょう。
石碑を護るように立っているのは、
日本赤十字社総裁であった、
閑院宮載仁親王
(かんいんのみや ことひとしんのう)
御手植えの松。
同じく、向かって左側には、
日本赤十字社名誉総裁を務められた
常陸宮妃殿下御手植えの松があります。
石碑全景。
100年近く前の石碑の文字は、
少し見えにくくなってはいますが、
「佐野常民生誕地」と書かれています。
石碑背面。
「大正十五年十一月行創立五十年」。
ちょっと龍岡城に行きたくなった(笑)
佐野常民生誕地訪問は、
これで完了です。