大樹寺(岡崎市)松平八代墓

 

歴史の重み

松平家八代が眠るお墓に参り、

案内文などを読むと、

歴代の松平家を支えた、

無名の家臣、領民などの存在を

改めて知る事ができます。

この礎というものは、

一朝一夕で醸造されるものではありません。

松平という、家臣や領民たちからして、

「ほっておけない殿様」がいて、

その連綿と続いた信頼関係の末、

家康さんが天下を獲れたことが、

体感できます・・・

一代で天下人に上り詰めた

豊臣秀吉とは比較にならない

「歴史の重み」というのが、

最終的な天下取りの

必須条件だったのかも

知れませんね。

廟所(墓所)

多宝塔の見学後は廟所へ。

パンフレットを抜粋し加筆しました。

本堂南西の多宝塔から霊園を通り、

突き当たりが松平八代墓です。

参道。

真新しい案内。

墓所全体像。

大樹寺松平八代墓についての歌碑。

中に入る前にまずは案内へ、

「史跡 松平八代墓 八基」

「元和元年(1615)

松平氏の菩提寺である

この寺に徳川家康が

先祖八代の墓を再建したもので、

元和三年(1617)には

天領代官畔柳寿学くろやなぎじゅがくが奉行となり、

現在の姿に整備された。」

このように記されています。

畔柳寿学という名前が珍しく、

ネットで調べると、

岡崎に派遣される前には、

駿府の町を整備した人で、

岡崎市の円福寺にお墓があり、

なんと高野山奥之院にも

立派な五輪塔が建てられているのです。

奥之院、本多家墓所。

この墓所の裏側に畔柳寿学の五輪塔が

建っているようなので、

僕たちは知らず知らずのうちに参拝し、

寿学さんから

「わしが精魂込めて整備した

大樹寺の松平八代墓も参ってくだされ!」

な〜んて、

導かれていたのかも知れません(笑)

「家康公の墓碑建立の趣意」

以下抜粋です。

「家康公が小藩微力の松平氏より

身を起こして千辛万苦の末に

将軍職にまでなったのは

代代数知れぬ三河譜代の忠臣と

あくまでも没落した主家を見捨てなかった

当時の町人百姓の助けがあったためである。

それらの松平以来の忠臣は

皆主君の大成を念じつつ

笑って死につき三河の土の中に眠っている。

家康公死去の当時の定めは

問うところではないが、

公が常に忘れなかった

三河以来の忠臣家臣の多くが眠っている

三河の地に公も共に眠るべきであり

それが当代の吾等の判断する

三河武士の君臣の情であるように思う。

我等は郷土の偉人を敬愛すると共に

公を育てかつ中には公の身代わりとなり

犠牲になった者もある

多くの家臣をも敬愛しているので

公が自ら定めておいたと伝える

大樹寺松平八代父祖墳墓の隣に

公の墓を勧請して建立供養しようと

発心したのであります。」

これは心打たれる名文ですね・・・

どんなに没落しても

家臣や領民に見捨てられない

底知れぬ松平家の魅力や

家康さんの人柄もあったでしょうが、

支える人がいてこその徳川幕府・・・

ここに家康さんのお墓を勧請したこと

一番喜んでいるのは家臣や領民、

そしてその子孫の方々でしょう。

石門から墓所内へ。

徳川家康墓碑側からの墓所全景。

松平初代、親氏墓から見た墓所。

ここから順にお参りしていきます。

お墓全体を動画でも撮影。

初代 親氏(生没年不詳)

二代 泰親(生没年不詳)

三代 信光(1404〜1488)

四代 親忠(1431〜1501)

五代 長親(1473〜1544)

六代 信忠(1486〜1531)

七代 清康(1511〜1535)

わずか24歳で亡くなっていますが、

大樹寺の多宝塔を建立したことで、

後世に名を残しています。

八代 広忠(1526〜1549)

家康が6歳の時に亡くなったお父様です。

徳川家康(1543〜1616)

幼くして父と死に別れ、

母とは生き別れ、

自身は人質・・・

この超ハードな経験を活かし

大輪の花を咲かせるなんて、

並大抵の人には出来ません。

神から選ばれし

家康さんだったからこそ

成し遂げられたものでしょう・・

(続く)

 

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