大督寺(山形県鶴岡市)酒井家墓所

 

領民に慕われた酒井家

江戸時代後期、

幕府より三方領知替えで、

転封の命が下された時、

庄内藩の領民は、

藩主酒井家の転封に

反対運動を起こし、

結局、幕命は取り消され、

明治維新まで酒井家が、

庄内藩主を続けています。

これは「天保義民事件」として、

語り継がれていますが、

戊辰戦争やその後の団結力を見ると、

酒井家はかなりの

善政を敷いていたのかと思います。

そんな庄内藩の藩祖は、

徳川四天王の一人、酒井忠次で、

その孫の代から、

庄内藩主となっています。

そんな酒井忠次の凄さを知ったのは、

長篠城で見たこちらの案内です。

設楽原での決戦前、

長篠城を見下ろす

武田軍の砦を

密かに囲んでいた

酒井忠次率いる徳川軍。

この隊の活躍で、

砦は壊滅し、武田軍敗北に

大いに貢献したと書かれています。

この密かに山に登るという

困難な作戦は、

酒井忠次の提案だったそうで、

やはり

大事を成し遂げる大将(家康)には、

それ相応の知謀に長けた

勇猛な武将がいるものだと

感心したものです。

山門

酒田市の南州神社から鶴岡市に移動し、

最初の目的地、大督寺へ。

山門前。

義民事件を映画化した

「義民が駆ける」ゆかりの地の案内。

幕命により転封となると

この地を守って来た

歴代藩主の墓を掘り返して

移転させなけらばいけない・・・

そんな問題もあったようです。

へ〜、ここって、

学校給食発祥の地なんですね。

山門。

屋根瓦の酒井家の家紋「丸に片喰かたばみ紋」。

境内側から見た山門。

本堂

まずは本堂へ。

参道左の板塀には、

「旧荘内藩藩主酒井家墓所」の

案内が掲示されています。

参道脇の花の下で、

トンボちゃんも

歓迎してくれています。

あまり見つめられると

照れますよ(笑)

本堂

雨が降りそうで降らない中、

本堂に到着。

参拝。

酒井家墓所

墓所は非公開のため、

本堂横からの遥拝となります。

本堂左側から視線をさらに

左に移すと・・・

板塀の向こう側に、

酒井家の墓石の頭が見えています。

忠次さんのお墓は右奥のようですが、

ちょっと分かりません。

ということで、まずは皆様を遥拝、

そして、

こんなスタイルでも再度参拝・・

酒井忠次の十八番、

「エビすくい」を踊る妻(笑)

重臣ながらも、気さくな踊りで、

家臣の団結をはかったという、

忠次さんの素晴らしい功績に、

改めて敬意を表した僕たちです。

学校給食発祥の地記念碑

墓参の次は、

学校給食発祥の地記念碑へ。

記念碑の後ろに酒井家の墓石も見え、

墓参直後の僕たちには、

どうしてもそちらに

目が行ってしまいます(汗)

案内を抜粋すると

以下になります。

「明治二十二年十月、

鶴岡の各宗寺院住職ら相図り

恵まれぬ家庭の子弟養育のため

大督寺内に私立忠愛小学校を開設、

浄財をもって子弟に弁当を給した。

しかるに同三十年十二月

該校舎は不幸にも焼失

同三十三年七月該校開設の

素志達成の熱意は

各宗協同忠愛協会の結成となり

その資金を年々

恵み薄い子弟等の給食費にあて

昭和二十年まで継続した。

大督寺境内におろされた給食の種子は、

その後全国各地に開花し

昭和二十九年六月には、

学校給食法としてみごとに結実した。」

なんか、

すごいお寺だったんですね!

江戸時代の飢饉の時、

藩主酒井家は、備蓄米などを放出し、

餓死者を出さなかったそうですが、

そんな先人への思いをも感じられます。

記念碑前の小僧さん。

なんか癒されました〜!

最後は恒例のこれでお参りは完了です。

 

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