南州神社(山形県)徳の交わり銅像

 

ネットが無くて良かった?

戊辰戦争降伏後、

庄内藩のお咎めが最小限だった事で、

その差配をした西郷隆盛を

庄内藩主以下多くが敬慕し、

鹿児島まで西郷さんを訪ね、

何度も足を運んでいます。

そんな庄内藩士たちと

西郷隆盛の交流により、

編纂され、広く頒布された

「南州翁遺訓」。

これが西郷さんの人となりを知る上で、

一番の手掛かりとなっているようです。

山形と鹿児島、

この距離感を考えると

今のようにネットがあれば、

ここまでの深い交流は、

できなかったでしょう。

コスパや効率は大切ですが、

そればかりを考えていると、

移動がバカらしく見え、

人と会う事が疎かになり、

核心を感じ取る事は、

難しくなりますから・・

明治初期、

ネットが無くて良かったですね(笑)

2つのパンフ

西郷隆盛を顕彰する組織を

「荘内南州会」といい、

神社には表紙違いで

中身が違う2種類のパンフがあります。

手のひらサイズなので

上下に並べ、

二つまとめて撮影してみました。

上の肖像画は、

鹿児島県総合教育センターの

解説が詳しいので、

引用させていただきます。

「もと荘内藩士族の石川静正が,

明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き

8年4月にも再訪し,

西郷の風容に接した。

こ の時の印象をもとに年月をかけ

隆盛の肖像を描いた。

これを 見た薩摩出の洋画の

巨匠黒田清輝が,

肖像画家として令名の 高かった

門弟佐藤均に勧め,

苦心の上,

大正2年に完成したのが此の肖像。

隆盛夫人,遺子などの鑑定により,

真に迫る 一品といわれる。」

南州神社の資料館でも

「この絵が一番本人に似ています」

そんな説明を受けました。

ちなみに

上野の西郷像を見た隆盛夫人は、

「全然似ていない」と言ったとか・・

ちなみにこちらが上野の西郷さんです。

似てるのか似てないのか?(笑)

「徳の交わり」

「戊辰戦争終結後、

南州翁に多くの学びを得るために

藩主をはじめ多くの藩士たちが

鹿児島を訪れました。

臥牛翁(菅実秀)は明治8年

鹿児島の武家屋敷を訪れ、

お互いの親睦を深め、

両翁は「徳の交わり」を

誓いあっています。

両翁の遺徳を偲び不易の教訓である

「敬天愛人」の精神を

永く後世に伝えるために

平成13年南州神社境内に

対話坐像を建立しました。」

このように記されています。

徳の交わり銅像

本殿参拝後、

徳の交わり銅像へ。

銅像は拝殿のすぐ隣ですが、

改めて専用参道で向かいます。

「敬天愛人」の石碑と

西郷さんゆかりの

沖永良部島から贈られた

「えらぶゆり」。

敬天愛人とは、

「人を相手にせず 天を相手にせよ

天を相手にして 己を尽くし

人を咎めず 我が誠の足らざるを

尋ね可し」

最後の尋ね可しとは「探し求めよ」

みたいな意味です。

到着。

案内。

西郷さん。

菅(すげ)さん(臥牛翁)。

僕たち&偉いお二人(笑)

資料館

ここでは、

社務所が資料館となっています。

館内での撮影は遠慮しましたので、

いただいた資料を掲載します。

愛加那さんが残したいた

西郷さんの髪から

血液型が分かったなんて、

すごいレア情報をGETです(笑)

西郷さんの原点は、

沖永良部島みたいですね。

右腕の負傷って、

妙円寺詣りの時だったんだ・・・

年表1

活躍〜島流し〜活躍・・・

ジェットコースター人生です(笑)

年表2

勝海舟が西郷さんの訃報を聞いて贈った歌、

「ぬれぎぬを 干さんともせず

子供らの なすがままに 果てし君かな」

これには・・

心を締め付けれれます・・・

南州神社に参拝できて、

本当に良かった・・・

 

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