十一人塚(鎌倉市)

 

道に迷った結果

稲村ヶ崎から、

江ノ電の稲村ヶ崎駅へ向かう途中、

なんだか来た時と景色が違うので、

「あれ?この道違ったかな?」

こう妻に話すと

「なんか違うみたい・・・」

と同意(笑)

まあ、ルートが違っても

駅はすぐ近くなので、

問題ないと思って少し歩くと、

路端で発見したのが、

こんな石碑です。

「十一人塚」

現代文に要約すると

「元弘三年(1333)五月十九日

新田勢大館又次郎宗氏を将として

極楽寺口(切通し)から討ち入ったが、

宗氏は、敵の本間城左衛門との戦闘で、

配下の兵十一人と討死。

そこに十一面観音を建て、弔った。」

このようになります。

へ~こんなものがあったのか・・・

さっき稲村ヶ崎の岩場で

妻が二回もすっ転んだのは、

この人達がここに

呼んでくれたのかも知れません。

「大将(新田義貞)の事だけでなく、

無名の俺たちも拝んでほしいよ・・・」

そんな言葉が聞こえてきそうです。

偶然、道に迷ったのも必然、

新田さんの配下の方々を

ここで慰霊する事に。

十一人塚

十一人塚は、

国道と江ノ電の中間地点、

閑静な住宅街の一角に

ひっそりと建っています。

入口。

平成19年3月設置の案内。

石碑とほぼ同じ内容です。

この後、墓碑の前へ。

そして、そのすぐ右側にあるのが、

こちらの案内です。

「鎌倉時代の出土人骨の埋葬について」

説明を書き出すと

以下になります。

「昭和34年晩秋、極楽寺橋付近の

造成現場で、鎌倉時代末期の

武士のものと見られる

多数の人骨が発見されました。

発掘調査の後、

鎌倉時代の人々を知るための

貴重な研究資料として、

その多くは東京大学人類学教室に

運ばれました。

一部は、

地域の人によって左手の丸い石の下に

埋蔵されたことが、

当時を知る人から伝えられ、

その経過を記録として残すために

本説明板を建てました。

平成22年 鎌倉市教育委員会」

説明板の「左手の丸い石」とは、

青いバケツのすぐ左の石でしょう。

大切に祀られているようです・・・。

「大館又次郎源宗氏主従十一人墓」

このように刻まれています。

合掌・・・

墓碑の右側面。

「干時 文久二壬戌年」

このように刻まれていますので、

今から160年前、

1862年の建立です。

江戸末期の方々が

当時からしても500年以上昔の

武士の墓を建てるとは、

やはり先祖代々、

語り継がれて来たからなのでしょう。

こちらは、墓碑の左側、

道路に向かって建っている

案内碑です。

昔は、ここが稲村ヶ崎古戦場の

入口で、

まずは十一人塚にお参りしてから

古戦場を見学という

コースだったのかも知れません。

稲村ヶ崎駅へ

江ノ電の線路を越え、

もうすぐ駅というところで

小さな神社を発見。

稲荷神社でしょうか?

道端から参拝。

そして、

カンカンカンと

踏切が遮断される音が!

小走りで駅に駆け込み、

江ノ電に無事乗車。

次なる目的は「鎌倉大仏」です。

 

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