福岡城ピクニック・完結編
無事、消化完了(笑)
令和6年11月9日に行われた
K氏主催の
「那国王の教室・福岡城ピクニック」。
わずか3時間足らずの短い時間に、
3日分以上の充実感を
味合わった気分です。
ただ、
K氏の解説に出てきた場所が、
余りにも気になり過ぎて、
消化不良分を起こしていました(笑)
というわけで、
令和6年12月18日、
K氏のお話しされた「現場」や
関連施設を散策し、
ようやく福岡城ピクニックは、
めでたく「消化完了」
という運びになったのです(笑)
散策場所
K氏の資料に、
消化不良解消箇所(笑)を
追記してみました。
消化コースは、
西中島橋(枡形門跡)〜水鏡天満宮〜
アクロス福岡横の石垣〜
天神地下街石積みの広場(肥前堀跡)、
その後、
福岡城への再訪問といった順です。
西中島橋(枡形門跡)
消化不良を起こした一番の原因は、
こちらの風景です(笑)
天守台東側の眺望。
こちらを指差しながらK氏の口から、
今回巡った場所が、
次々に出て来たので、
その瞬間、
「行くしかない」と大決定(笑)
蔵本のバス停から
キャナルシティを左に見ながら
西に進むと西中島橋が現れます。
ここに、
どデカい枡形門があったんだ・・・
想像力を爆発させながら
妻と二人してちょっと感動。
「にしなかしまばし」
「中島」は濁点のない
「なかしま」なんですね!
東詰めからの風景。
対岸の福岡市赤煉瓦文化館が、
江戸から明治へと
歴史のタスキを繋いでいます。
枡形門の「痕跡」や
「案内」はないものかと思いつつ
中島橋を渡っていると、
妻が橋の真ん中あたりに
石のベンチ的案内板を発見。
さり気なさ過ぎて、
興味ある人以外は
見逃してしまいそうです(笑)
お〜これはイメージし易い!
枡形門の墨絵まであって、
素晴らしいじゃないですか!
これ設置した人、
さり気なさ過ぎなんて書いて、
ゴメンちゃい(汗)
そして、
案内を少し抜粋してみると
「福岡の街の東の境目の那珂川縁には、
「枡形門」が設けられ
西中島橋・東中島橋によって
博多町と繋がっていました。
枡形門は、軍事的防衛と唐津街道の
城下町出入口の機能を持ち、
高さ10mの石垣と櫓門でつくられており、
唐津街道に通じる北門と
福岡城大手門に通じる
南門を備えていました。」
このようになります。
それにしても10mの石垣とは、
驚きの高さですね!
数多くある江戸城の巨大枡形門にも
引けを取らないかと思います。
黒田官兵衛・長政親子の
百戦錬磨の実戦経験に裏付けされた
枡形門設置だったのでしょう。
水鏡天満宮(鬼門守護)
次に枡形門跡のすぐ近く、
水鏡天満宮へ。
福岡市赤煉瓦文化館横の裏参道から境内へ。
表参道一の鳥居。
鬼門の案内。
「当神社は道真公が
姿を映されたと伝わる
今泉に鎮座しておりましたが、
初代藩主黒田長政公が福岡城築城の際に
城の鬼門に当たる現在の地に遷座し
城下全体の守護としました。」
こちらの案内の神社の古地図には、
枡形門らしきものもありますね!
「水鏡天神社の図
筑前名所図会(1821年)」
左上が枡形門でしょう。
石垣の上に櫓は無かったのか、
松の木が描かれています。
築城当初から
同じだったかはは不明ですが、
1821年といえば、
築城から200年以上、
平和な時代になって、
櫓は取り壊されたのかも知れません。
狛牛にご挨拶して境内へ。
参拝。
400年以上の長きに渡り
鬼門守護の大役を
見事に果たされて来た道真さん、
本当にご苦労様&ありがとう!
アクロス福岡横の石垣
K氏のお話を聞かなければ、
ここの石垣を知る事もなく
僕は人生の幕を閉じていたでしょう(笑)
アクロス福岡。
視線を河面の方に向けると・・
お〜石垣がある〜!
ちょっとズーム。
近影。
オリジナル&後世に補填した
ミックスだとは思いますが、
これを残した人、偉い!
アクロスを過ぎた
南側にも連なっています。
石積みの広場(肥前堀跡)
佐賀藩のお手伝い普請で出来た
「肥前堀」の名前は知っていましたが、
K氏の説明で実際の「場所」が分かり
痕跡探しをした所、
肥前堀への追慕ができる
素敵な場所を発見しました。
何とそれは天神地下街にあるのです。
この辺りの壁、
間違いなく「石垣」ですよ!
「石積みの広場」
肥前堀の事は書かれていませんが、
多分、K氏が福岡城の天守台で
案内してくれた地点です。
あたりは全て石垣!
福岡に住んでいながら
天神地下街にこんな場所があったとは、
全く気づきませんでした・・・
隅石は算木積みっぽく
仕上げられていますね。
これは埋門(うずみもん)かな?(笑)
石を割った痕跡、
矢穴までもありますね。
天神地下街に石積みの広場を作った人、
流石です!
肥前堀の余談
肥前堀に関連したものが、
もう一つあります。
筥崎宮の鳥居です。
佐賀藩オリジナルの
「肥前鳥居」と言われる
石のパーツを組み立てる構造の鳥居で、
佐賀県には無数にありますが、
福岡市内の神社で
このタイプの肥前鳥居を見たのは
筥崎宮だけです。
慶長十四年(1609)の建立で、
黒田長政の寄進となっていますが、
関ケ原の戦いで
西軍(石田三成側)だった
佐賀藩の鍋島勝茂を
黒田長政が徳川家康に取りなしたことで、
お家存続が出来たお礼に
佐賀藩が「黒田長政の寄進」として
建立したのではないか?
というネット記事もありましたので、
肥前堀に関連する
「福岡藩と佐賀藩の蜜月の証」として
ここに書いておきます。
結び
「那国王の教室・福岡城ピクニック」、
冒頭に書いたように
たった3時間の出来事が、
令和6年〜7年と2年に渡る(笑)
11日間の連載記事となりました。
「知るを楽しむ」
こんなK氏を囲んでのひと時、
最後はP氏のサプライズサンドで
全部持って行かれた感もありましたが(笑)
僕たち夫婦にとって
かけがえのない時間をいただいた事
心から感謝しています。