野辺地戦争戦死者の墓所

 

下北半島一周

青森での3日目は、

青森市内からの日帰りで

下北半島を一周する旅。

走行距離は一般道のみで、

約400km以上・・。

予定通り訪問を完了させるには、

絶対に迷うことは絶対許されない、

カツカツの行程です。

まあ、

いつもカツカツなんですけどね(笑)

青森〜野辺地〜むつ市〜尻屋崎灯台〜

恐山〜大間町〜仏ヶ浦〜青森。

これがこの日のドライブルートです。

駐車場にて

早朝5時、ホテル斜向かいの駐車場へ。

一晩の料金は350円と

物価に反抗しています(笑)

ここに停められたのは、

ホテルJALシティ青森

駐車係のおじ様からいただいた

日本最高クラスのおもてなしのお陰、

改めておじ様に感謝です。

下北半島に行くぞ〜!

エイ、エイ、オー!(笑)

野辺地

青森から1時間、

この日最初の目的地、

野辺地戦争戦死者の墓所に到着。

エントランスには花壇も設けられ、

手厚く慰霊されている感満載です・・

正面。

正門から中へ。

まずは案内板を確認。

「野辺地戦争戦死者の墓所」

以下、案内文です。

「京都の鳥羽・伏見において始まった

戊辰戦争は、

やがて全国を巻き込む内戦となった。

東北地方の諸藩は、官軍に対抗して

奥羽越列藩同盟を結成したが、

各藩の思惑は一致せず、

秋田藩・弘前藩なとは、

その後官軍支持に立場を変えた。

明治元年(1868)九月二二日夜半、

弘前藩の軍勢約一八〇人が

突如南部領に侵攻した。

本道を通った一隊は藩境の村、

馬門に火を放ち野辺地材に迫った。

他の一隊は、山道を通り野辺地村の

代官所をめさした。

藩境の防衛にあたっていた

盛岡藩・八戸藩合軍は、

これに応戦し銃撃を加えた。

夜明けまで続いた戦いの後、

弘前藩の軍勢は

四十余人の死傷者を出し敗走した。

この頃、東北地方の戦乱も

ようやく終結しようとしていた。

江戸幕府支持を続けた盛岡藩は、

その後伊達領白石に転封された。

野辺地戦争の翌年、

弘前藩は戦死者二七人の名を刻んだ

墓石四基をこの地に建てた。

明治維新における本県の歴史を伝える

貴重な史跡である。」

奇しくも、

会津藩が降伏した9月22日に、

野辺地での戦いが起きています・・・

戊辰戦争というのは、

あまりにも悲劇が多過ぎて、

語るには難しいほどですが、

弘前藩も苦渋の決断で、

官軍についたものの

目立った活躍をしていなく

官軍への忠誠心を示すため、

「ちゃんと戦った痕跡」を残すという

義務感に駆られての

盛岡藩攻撃だったようです・・・

墓所へ。

野辺地戦争戦況図。

最後まで、

奥羽越列藩同盟として戦った盛岡藩、

案内にも書かれていましたが、

ここでの戦いは

明らかに「勝利」ですね・・・

四基の墓標手前には

弘前藩戦死者の名前が書かれた

標柱が建てられています。

一番右側から参拝開始。

司令士の「小嶋左近貞邦」さんは、

弘前市に残る最古の「ねぷた絵」の

作者でもあります。

世が世なら、

弘前ねぷたの主役となっていたかも

知れませんね・・・合掌。

右から二番目の墓に参拝。

お名前。

三番目の墓に参拝。

お一人お一人の名前を

こんなに大切に扱っているお墓は、

ちょっと珍しいかもです。

素晴らしいことです・・・

最後に一番左端の墓に参拝。

お名前。

盛岡藩領だった野辺地町は、

明治維新後、

旧盛岡藩領の岩手県ではなく

旧弘前藩と合併する形で

「青森県」となっています。

こんな運命もあって、

弘前藩士たちは、

ここでより手厚く慰霊されることが

出来ているのかも知れませんね。

今日のオブジェ

お墓の右側で見つけたオブジェ、

何を表すのでしょう・・・

鎮魂を表現する前衛芸術?

う〜ん素人の僕には、

難しかった〜(汗)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください