郡上八幡城(岐阜県郡上市)(3)
先人達も聞いている
「ミシ、ミシ、ミシ、
キュッ、キュッ、キュッ」
郡上八幡城天守内部には、
こんな「BGM」?が流れています。
最初妻が、「あれっ、何の音?」
そう言って不思議がっていました(笑)
吹き抜けの構造だし、
しかも90年前の木造天守なので、
各階を歩く人全員分の「きしみ音」が
常時響き渡るのです。
日本が国際連盟を脱退し、
「戦争の足音」が近づく昭和八年、
万難を乗り越えて、
こんなにも立派な大天守を建て、
今に繋げてくださった
偉大なる先人達も
「ようこそ、きてくださった!」
なんて歓迎してくれながら
高い空から「平和の足音」を
聞いていたのかも知れません・・・。
旗印
元々天守がなかった場所に
模擬天守を建てた場合、
何となく違和感があるのですが、
郡上八幡城は、
そんな危惧とは一切無縁です。
昔からあったみたいな天守(笑)
右奥が入城口へ。
この素朴さ、いいですね〜!
天守に入ってすぐ右に配置されたのが、
こんなものです。
「郡上八幡城 歴代城主・藩主の旗印」
左側から
遠藤氏、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏。
「家紋」でなくて「旗印」というのも
ちょっと斜め上を行くおもてなし、
実に素晴らしい!
木造の階段。
恐らくこの写真は、
「堀越峠」から撮ったものですが、
僕達はそこまで行く時間がなかったので、
このタペストリーで、
満足するとしましょう(笑)
なんか、かっこいい。
お城と城下町のジオラマ。
郡上八幡城の建設
これを見ずして、
郡上八幡城は語れない・・・
は言い過ぎでしょうが、
この建設には、
心に響く歴史が詰まっています。
「日本最古の木造再建天守
郡上八幡城の建設」
案内を書き出すと、
以下になります。
「現在、城山の山頂に建つ天守は、
昭和八年(1933)に建てられた
日本最古の木造再建天守である。
昭和四年(1929)に起こった
世界恐慌の影響で日本経済は
危機的な状況に陥っていた。
そのような厳しい社会情勢の中で、
当時の仲上忠平町長と議会は
郡上八幡城の天守の再建を決定した。
建設工事には地元の多くの職人が関わり、
町内からの寄付金を得て完成した。
現在は城下町郡上八幡の
象徴になっている。」
仲上忠平町長の
先見の明はもとより、
それを後押しした議会、
住民の方々も大したものですよ。
建築から90年経っても
郡上市の「宝物」となっている
再建天守なんですからね!
そしてその「宝物」が、
人々の手により
代々引き継がれているのも
また、凄いことで、
その一例が、こちらです。
このガイドマップの表紙、
仲上忠平町長のお孫さん、
水野政雄氏が描かれているのです。
しかも水野氏、
ユネスコ無形文化遺産に登録された
「郡上おどり」のポスターを
30年も手がけられているというから
簡単に言えば、
一世紀に渡って郡上愛を発信し続けた
ご一家なんですよ!
こんなストーリーを知るだけで、
もうたまらんですね(笑)
郡上八幡城の物語
ここからは、
代々の城主(藩主)と
それにまつわる歴史の案内で、
「郡上八幡城の物語」として
わかりやすく
パネル展示されていますので、
各所の解説を要約してみます。
【赤谷山城を築いた東氏】
「篠脇城から赤谷山城に移った東常慶」
「承久の乱の功で千葉氏の一族である
下総国東庄の東胤行が郡上郡山田庄に
入り、その後、篠脇城を整備する。
天文十年(1541)東常慶は、
赤谷城を築き、移転した。」
【赤谷山城の戦い】
「永禄二年(1559)
郡上の支配を巡って、
東氏と東氏の有力な支族である
遠藤氏が対立、牛首山(八幡山)に布陣した
遠藤盛数は、赤谷山城を落城させ、
東氏はその後、滅亡した。」
【郡上八幡城を築いた盛数】
「遠藤盛数(遠藤氏一代)
「永禄二年(1559)
赤谷山城を攻め落とした遠藤盛数は、
その後、砦としていた八幡山に
城を築くことにし、兄胤縁の子胤俊とともに
美濃斎藤龍興に従い織田信長と戦った。」
【郡上の統一を図った慶隆】
「遠藤慶隆」(遠藤氏二代)
「永禄五年(1562)盛数は陣中で病死し、
その子慶隆が十三歳で家督を継いだ。
その後、胤俊との争いに勝った慶隆が、
郡上を統一した。」
「姉川・堅田の戦い」
「永禄十二年(1569)
織田信長に従った慶隆は、
織田の武将森可成の与力衆として
姉川・堅田の戦いに従軍、
堅田の戦いで、敗北し、
慶隆は脱出したが、胤俊は戦死した。」
【信長・秀吉と慶隆】
「本願寺との戦いに迷い、悩む」
「本願寺は浅井・朝倉・武田と連携し
信長に対抗していた。
郡上の地元、安養寺も本願寺につき、
織田に従軍しながらも
慶隆は密かに浅井・朝倉と通じたが、
武田信玄が急死し事態は一変、
信長の郡上征伐を受けて降伏し、
信長に服従した。」
「秀吉の軍門に降る」
「信長が本能寺で討たれた後、
後継者として柴田勝家の推す、
信長の三男信孝に味方したため、
秀吉に攻められ、降伏し、
結果、郡上を取り上げられ、
転封されて、
石高は半分近くまで減った。」
【郡上八幡城を改修した稲葉氏】
「稲葉貞通」(稲葉氏一代)
「天正十六年(1588)
遠藤氏に代わって、
郡上八幡城に入り、城を大改修。
天守台・城門・石垣・馬場などを
整備して完成させた。
現在残る城跡の多くは、
この時のままとされる。」
「その後、関ケ原合戦の前哨戦で、
東軍に与した遠藤慶隆と、
当初西軍に与した稲葉貞通が
郡上八幡城で戦った。」
郡上八幡城の戦いの映像と絵図。
【苦難を超えて、
郡上藩の基礎を築いた慶隆】
「遠藤慶隆の郡上復帰」
「郡上に復帰した慶隆は、
徳川家に従い、城普請、大阪の陣など、
休む間もなく様々な役を果たした。
寛永九年(1632)
慶隆は、江戸屋敷において、
八十三年の波乱の生涯を閉じた。」
三代、遠藤慶利から
六代、常久まで、
藩主は遠藤氏の時代で、
常久には後継がなく、
ここで遠藤氏は改易されています。
【人減らして藩財政再建をした正任】
「井上正任」(井上氏一代)
次は、親藩の井上氏。
井上正任は簡単に言えば、
財政難をリストラによって改革した人です。
井上氏は二代で終わり、
次の金森氏の時代へ。
初代は平穏な時代でしたが、
二代目がかの有名な
「宝暦騒動」で改易になった
金森頼錦(よりかね)です。
「社交費の増大などで藩の財政を圧迫、
宝暦四年(1754)
年貢の定面取を検見取に
変えようとしたことを契機に、
以後、五年間にわたる宝暦騒動が起きた。
結果、宝暦八年、領地没収、
金森家断絶の処断を受け、
南部藩にお預けとなった。」
この後に郡上藩主となったのが、
徳川譜代の青山氏です。
四代〜六代。
最後の藩主「青山幸宣」。
戊辰戦争では苦渋の決断で
新政府側につくも、
江戸藩邸の有志は幕府側につき
「凌霜隊」として、
会津若松で鶴ヶ城に籠城し、
戦後の悲劇に繋がっています。
青山氏の甲冑で〆。
やはり遠藤氏のドラマチックな、
戦国時代生き残りエピソードを読むと、
一揆や飢饉などはあるものの、
サバイバルゲームもない江戸時代は、
書きたくなることが
いかに少ないことか・・・
いや、
それが平和というものでしょう(笑)
(続く)