鉢形城(埼玉県寄居町)前編

 

思惑が一致

「鉢形城に行きたい!」

そんな北条氏好きの妻の一声で、

鉢形城行きが決定(笑)

元々、僕も行きたかった所だったし

旅の計画にも入れていたので、

二人の思惑が(笑)

一致したという事でしょう。

鉢形城略歴

鉢形城公園のパンフレットによると

鉢形城の歴史は、

次のように書かれています。

「1476(文明八)

長尾景春が築城

1478(文明十)

太田道灌が長尾景春を破り、

関東管領の上杉顕定が鉢形城に入る

1560(永禄三)

小田原北条氏一族の北条氏邦が、

この頃鉢形城主となる

1574(天正二)

上杉謙信、鉢形城周辺に放火

1590(天正十八)

豊臣秀吉軍の前田利家

上杉景勝らに攻撃され、

籠城戦の末鉢形城開城」

このようになります。

この中の太田道灌は、

江戸城を最初に築城した人で、

今でも江戸城には道灌濠など

太田道灌の名が冠せられた場所があります。

鉢形城歴史館

熊谷市からの道中、

たまたま出会った

畠山重忠公の墓にお参りし、

鉢形城へと向います。

鉢形城公園駐車場。

まずは、情報収集のため、

鉢形城歴史館へ。

堀切?の上に渡された橋を渡って

突き当たると右側がトイレ、

左側が歴史館です。

歴史館。

館内の撮影は禁止ですが、

最近リニューアルされたようで、

鉢形城のジオラマや映像、

音声案内、展示パネルなど、

入場料200円では

申し訳ないくらいの充実ぶりです。

記録が無い分記憶に留めたい所ですが、

やはり記憶はすでに薄れ気味かも(汗)

鉢形城の周辺マップ。

城域内のマップ。

このブログ(前編)では、

黄色の丸で囲った場所を

巡っています。

外曲輪

深沢川を挟んで、

西側に本丸などのメイン曲輪、

東側が外曲輪となって、

本丸までの緩衝地帯となっています。

外曲輪。

鉢形城は全体的に芝(草)を植えて、

見た目にも素晴らしく整備されています。

土塁。

土塁の天辺に散策路が造られています。

深沢川の深淵

まずは、妻がテレビで見たという場所へ。

随所にこのような案内板があり、

鉢形城の散策は実に快適です。

ここから森の中へ・・・

深沢川に架かる橋。

橋から見た西側の景色。

実はこの反対側に

町指定名勝の四十八釜という

奇景があったのですが、

この時は全く気づかず(汗)

妻曰く、

「うん、ここだ!」。

外曲輪側が断崖の上、

本曲輪側が断崖の下。

なので、敵が外曲輪を突破しても

断崖から落ちる

仕掛けだったのでしょうか?

川岸から上流側を撮影。

断崖。

川下から断崖方面を撮影。

冷たくて気持ちいい水。

動画でも撮影。

氏邦桜

深沢川を散策後は、

二の曲輪方面へ。

これだけ歩きやすい山城も

珍しいかも・・・

そして、左側に見えてくるのが、

こんな光景です。

曲輪の端っこにそびえるのは、

巨大な桜。

「鉢形城の桜・エドヒガン」

2018年3月には、

鉢形城主だった北条氏邦の名前から、

「氏邦桜」と命名されています。

案内を要約すると

「エドヒガンは関東地方で

彼岸の頃に咲くことから、

この名前がついた。

このエドヒガンは、

二本の幹が一旦伐採されて、

その株元から十二本の芽が成長したもので、

枝は笠鉾状に広がり、

見事な樹形を呈している。

なお、樹齢は百五十年ほどと推定される。」

このようになります。

凄いお話ですよね!

一旦は伐採されて死んだはずなのに、

その魂は、12本の幹を生んだのですから!

まるでイザナギノミコトが、

妻イザナミノミコトを焼き殺してしまった

赤ん坊の火の神「カグツチ」を斬った時、

その死体や血液から

多くの神様が生まれた神話を

彷彿とさせてくれます。

柵の外から撮影。

ズームすると

古株の上に十二本の幹が育ったのが

よくわかります。

根の張り具合から、

もしかすると北条氏邦さんが

小田原征伐軍と戦った頃にも

二本の幹があったかも知れません。

別角度からも撮影。

「氏邦桜」、

ホント、いい名前です。

次に伝御殿曲輪へ。

(続く)

 

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