2024/10/16

八甲田山雪中行軍遭難資料館・中編

 

雪中行軍遭難のあらまし

210名中199名が犠牲となった、

八甲田山雪中行軍のあらましを

パンフレットをもとにして

時系列に書いてみます。

「1月23日、

青森第五連隊、行軍開始、

猛吹雪で、すでに遭難の予感。

24日、1/3の兵を失う。

25日、吹雪は続き、

1/3は倒れ1/3は凍傷で

自由に行動出来ず、

1/3は比較的健全な状態。

食料も燃料も乏しく前途は見えない。

26日、歩ける者も散り散りになり

各隊、死者が激増。

27日、仮死状態の後藤伍長を

捜索隊が発見。

10分後に蘇生し、

この後藤伍長の証言から捜索が進む。

28日、大規模な捜索活動始まる。

5月28日、最後の遺体を収容。」

過酷とか、そんな言葉では、

言い表せない程の凄まじい状況、

想像することすら出来ません・・・

展示室(続き)

ここからは展示パネルを

超訳して行きます。

「ロシア戦に備えた冬季演習」

「真冬の八甲田越えが意味するものは、

仮想敵国のロシアが津軽海峡を封鎖し、

八戸方面に進軍した場合、

国道が破壊されrば、

迎撃部隊は弘前・青森から

八甲田山を越えて

進軍するしかないとの観点から

第八師団としてもこの難題に

取り組む必要があった。」

僕たちは偶然が重なり、

遭難資料館訪問の前、

この中に出てくる

第八師団の師団長、

立見尚文たつみなおふみ中将が揮毫した

神額が掲げれらた浪岡八幡宮

参拝しているのです。

Wikipediaによると

この師団は、

日露戦争に於いて満州で戦い、

その功績により

立見さんは戦後大将となり、

直後、亡くなっています。

冬の満州でロシア軍と対峙した時、

立見中将の胸中には、

八甲田山行軍での遭難の教訓と

戦地で多くの兵を失くした事など

鎮魂の念があったのだろうと

推測してしまいます・・・

そして、

全身全霊で使命を成し遂げた時、

魂が抜けていったのかと・・・

「第五連隊の行動計画」

「青森〜田代間

約20Kmの一泊雪中行軍を計画。

行軍の指揮官は、山口少佐、

実質的責任者は神成大尉。

出発前、

凍傷を避けるため休息は3分以内、

手足をまさつする事、

略装の一般防寒着に、わら靴着用などが

訓示された。」

199名の犠牲を出した青森第五連隊。

右上の小集団は、

全員生還した弘前三十一連隊の編成。

「二隊のルート」

「第五連隊の行軍経過」

これは冒頭に書いたとおりの

悲劇の幕引きです・・・

「第三十一連隊の行軍計画」

「第五連隊が出発する3日前の

明治35年(1902)1月20日、

弘前の第三十ー連隊37名の将兵が

福島泰蔵大尉の指揮もと、

弘前屯営から十和田湖を経由して

三本木に抜け、

さらに田代から青森へ達して、

弘前に帰るという計画で出発しました。

福島隊は途中の村落で村民たちの

手厚い歓迎を受けながら、

さらに地元の人々の生活に根づいた

雪への知識と経験から多くを学び、

道案内も雇いました。

12日後の1月31日、

一人の機性者も出さず、

無事に全行程を踏破して

弘前の屯営に戻りました。

青森隊とまったく同時期に、

はるかに小規模の部隊編成で、

長距離行軍を完遂した偉業には、

青森の山野と雪質への経験が豊富な

地元青森出身者が大半を占めていたこと、

経験のある地元の村民を

案内人として雇ったこと、

さらに「雪中行事に対する研究・準備が

十分になされていたことなど

様々な要因が考えられます。」

「第三十一連隊の行軍経過」

「1月20日、37名の福島隊が、

弘前駐屯地を出発。

要所要所で案内を雇いながら、

迷う事なく、

厳しい寒さも乗り越え、

1月31日、全員無事帰営しました。」

「食料・衛生・服装について」

基本全てが、現代と違い、

貧弱なものですが、

それは仕方ない部分も

多いと思います。

また、酒は慎むよう軍医から

指示があったのに

食料の中で、清酒36ℓが

入っています。

寒さを酒で体を温め凌ぐのが

目的だったのかどうかは、

分かりませんが・・・

「第五連隊の迷走経路」

行軍ではなく「迷走」と言うのが、

悲しい・・・

「装備の比較」

当たり前ですが、

当時と現代では

雲泥の差があります。

第五連隊の服装と自衛隊の冬装備。

真ん中は、第五連隊の兵士が

背負っていたのと同じ重さのもの。

妻が体験。

かなり重かったそうな・・

コスプレを楽しむ妻(笑)

敬礼!

そして、

足が凍傷になるか否かを

大きく左右したのが履き物です。

「革靴を履いていたものは、

全員凍傷に冒されていました」

「藁履は歩いているときは

暖かいのですが、

立ち止まると付着した雪が固まり、

凍傷をまねきやすいと言われています。」

「救出された倉石大尉は、

東京で買い求めた

ゴム長靴を履いており、

凍傷を逃れました。」

雪の中に入るならば、

ゴム長靴が正解ですね!

「雪壕と炊事模型」

「凍傷を防ぐ方法として、

足の指に唐辛子を砕いたものを付け、

さらに油紙を巻くという

方法もありました。」

ここまで見てきて、

八甲田山雪中行軍の全貌が

ようやく掴めて来ました。

(続く)

 

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