2018/06/09
平戸城(長崎県平戸市)後編
山鹿素行の城
山鹿素行と言えば、江戸時代前期の
儒学者で、日本こそが中朝(中華)
であると、それまでの中国かぶれの
儒学とは反対の「中朝事実」を
著し、天皇が万世一系と
讃えた人として有名ですが、
実は軍学にも長けていたとは、
初めて知りました。
ネット調べによると
素行が平戸藩主の松浦鎮信と
親しかったことから平戸城は
山鹿流軍学に基づいた
縄張(設計)となったのでした。
平戸城が再建されたのは、
山鹿素行が亡くなってから
20年も後のことなので、
実際の縄張指導は素行の子供である
山鹿義昌が行なったそうです。
他に山鹿素行(山鹿流)が
縄張を行なったのが、
忠臣蔵で有名な大石内蔵助がいた赤穂城。
そして、大石内蔵助も素行の門弟で、
赤穂浪士の討ち入りが大成功した後、
山鹿素行の軍学は
「実戦的な軍学」という評判が立ったそうで、
そんな「実績」も踏まえて平戸城は
山鹿流になったのかも知れませんね!
やはり実証されることほど
協力なPRは無いですから(笑)
大手口へ
本丸方面から一旦
お城の出入り口までいき、
そこからまた引き返して
撮影します。
ここが、大手の入口。
驚いたのはここに
肥前鳥居があること。
お城の時代にはここに鳥居なんて
無かったはずなのに、
江戸初期に作られたであろう形の
肥前鳥居に???がいっぱい(笑)
疑問はネットで解決しましたが、
それは次回、肥前鳥居のブログで書きます。
今は、お城ですから!
一の丸大手門の石垣左側。
一の丸、大手門一ノ門の石垣右側。
ちゃんと残っている石垣に感動。
枡形になっている大手門跡。
雁木(がんぎ)
雁木を使い櫓台に登ってみました。
櫓台の上から大手枡形を撮影。
思ったよりも大規模な枡形です。
城外へ向けての雁木。
天守にあったジオラマでは
大手門の横には櫓が連なっていました。
石垣と雁木。
門の礎石がしっかりと残っています。
石垣の保存状態は完璧。
一の丸、大手門二ノ門(櫓門)跡。
一ノ門とともに、かなり厳重な防備に
なっていた形跡があります。
中門の石垣。
ここから二の丸へ
ここの石垣は古い積み方なので、
慶長期(1599年)に
作られた時のものかも知れません。
二ノ大手門。
大手門が二つあるとは
かなり豪勢な縄張です。
ここも枡形になっていて、
防御は完璧だし!
そして、起点となった二の丸へ
最後の石段を登り、
これで一通り平戸城の
散策は完了。
次はこの先の本丸御殿跡に建立された
亀岡神社を目指します。