平戸城(長崎県平戸市)中編

 

「天守閣」ではなく「天守」

お城にまつわる言葉は

色々ありますが、

一番多く使うのは「天守閣」

ではないでしょうか。

実は、天守閣は、「天守」

と呼ぶのが正式だと知ったのは

1年ほど前です。

まあ、どっちでも意味は通じるから

以前の僕みたいに知らない人が、

天守閣と言っても、

「いや、それは違う!天守ですよ!」

な〜んて訂正したりしません(笑)

しかもお城自体の案内にも

「天守閣」と書かれていることは

多々ありますから。

天守へ登る

お城に興味を持ち始めてから

天守に登るのが一番の目的では

なくなった気がします。

お城に残さされた江戸時代以前の

石垣や石段、櫓門(跡)などの

散策や、天守を外から眺め

またいくつもの角度や距離を変え、

写真を撮ることの方が、

中に入ることよりも

優先されるようになりました。

それでも、天守に登ればそれは

それで、大いに楽しんでいるのですが(笑)

こちらが正面入口。

入るとすぐにこんなものがあり、

自由に使って撮影を楽しめるように

甲冑や兜など結構綺麗なものが

ラインナップされていました。

階段を上がっていくと

模擬天守らしく、中味は

博物館的なものになっています。

諸説あるのでしょうが、

平戸には多くの「日本初」が

あるようで、

タバコ、ビール、お茶、パン、

カステラ、甘藷(さつまいも)、禅、

などなど…

確かに長崎が開港される前には

外国船がたくさん平戸にきて

日本の貿易の窓口的な存在だったのは

間違いありませんから

「日本初」のお話も

大いにうなずけるものですね!

平戸の松浦氏がこのあたりを

統一したようです。

この界隈ではボスだった松浦市が

おしっこちびる位にビビったのがこちら。

徳川家からの書状。

松浦隆信ではなく、

豊臣隆信と書かれています。

関ヶ原の前、豊臣恩顧の大名だった

松浦氏は秀吉から「豊臣」の姓を

貰っていたのです。

関ヶ原には積極的な参加をせず、

そのこともあって家康には

疑われていたようで、

それがこの書状となったのかも知れません。

暗に「お前は豊臣の味方なんだろう?」

というプレッシャーに押しつぶされたのか

松浦隆信は平戸城に火を放ち、

徳川への忠誠を形にしたとも

言われています。

外様大名だったにも関わらず、

幕末まで改易もされず、

しかも江戸中期になって

平戸城の再建の許可までもらい

新たにお城を作るという離れ業まで

やってのけた松浦氏、

無事(笑)明治維新を迎えられたのは、

お城を焼き捨てるという

パフォーマンスがあったからこその

信用だったのかも知れません。

百の言葉よりも一つの行動…ですね!

こちらがその幕府が

「再建していいよ〜」

と言ってくれた

平戸城再築城当時の

北虎口門の「くぐり戸」で、

300年以上も前のもの。

この門の左側の小さい扉ですね!

館内を一通り見て最上階に到着。

本丸の広場。

南側の景色。

見奏櫓と懐柔櫓と海。

西側の景色。

平戸大橋が見えています。

景色を堪能した僕たちは

再び城内の散策に向かいます。

地蔵坂櫓への石段。

地蔵坂櫓。

フェリー乗り場も見えるくらい

海のそばにあります。

地蔵坂櫓から見る乾櫓。

この辺りの石段は、

往時のまま残っています。

乾櫓を下から見上げる。

方啓門。

門を支えていた石垣。

亀岡神社の狛犬が乗っています。

向かって左側の石垣。

この狛犬の表情が

凄いのです!

吽形はこちら。

何故か狛犬の足元に

角がとれた石が沢山置かれています。

何かの願掛けなのかな?

枡形虎口になっていて、

敵の侵入を防ぐ形です。

この辺りに入ってしまうと

前方、横、後ろ全て

撃ちまくられます。

もし僕が城攻めの先鋒ならば

すでに鉄砲で全身蜂の巣に

なっているはず(笑)

この辺りの石垣も

恐らく築城当時のものでしょう。

登り切ったところが二の丸。

ここにも槙が並んでいます。

ここからは大手門へ向かいます。

今日の食べ顔

いつも旅の時は、

妻は早朝から豪華な弁当を

作ってくれます。

量もかなりのもので、

いつも旅に出ると太っています(笑)

さあ、腹ごしらえも完了し、

次なる場所に出陣じゃ!(笑)

 

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