浦賀駅前の歴史絵(令和8年1月)
たかが小学生の絵という勿れ
小学生、中学生が描いた歴史絵、
どれほどの観光客が目を止めるのか?
少なくとも僕と妻の二人は、
目を止めました(笑)
今はなんでもデジタルで見られる時代、
なので、
アナログな「歴史絵」なんて、
時代遅れなのかも知れませんが、
アナログの良さというのは、
一目瞭然で完結できる事。
パソコンを起動する決意も、
スマホをスクロールする時間も
全く不要なのです。
浦賀駅を降りて最初に出会った「歴史絵」、
僕たちに新たな知識を提供してくれた、
秀逸な作品群に、
「たかが小学生の絵という勿れ」
こんなフレーズが頭を過った
ひとときでした。
散策コース
4時間前にいた福岡空港では
雨だったのが、
浦賀では快晴となり、
日本は広いな〜と改めて実感(笑)
僕たちにとっては、
願ったり叶ったり、
これから目指す、叶神社の
先行的御利益の賜物かも知れません!

浦賀駅前の横断歩道。
振り返ると、
案内と沢山の歴史絵があります。

「黒船来航 開国のまち・浦賀」
ここには3つの散策コースが
紹介されていますが、
ここでの注目はこちらです。

観音崎コースの「会津藩士の墓」。
まさか「浦賀」で、
「会津」の文字を見るとは
思いもしませんでした!
少し調べてみると、
江戸時代、ペリーが来る数十年前の
文化・文政期(1800年〜1830)頃、
海を監視していた、
会津藩士たちのお墓でした。
ここには遠見番所が、
あったのでしょう。
遠く会津からこの地まで、
派遣されていたのには驚きます。
(江戸定府の人だったかもですが)
※江戸定府とは、ずっと江戸の屋敷にいて
○地元に帰ることがない藩士の事です。
歴史絵
そして、ここからは、
歴史絵三昧スタート!
比叡山延暦寺では「絵看板」と
呼ばれていましたが、
ここの絵の中の一つに、
「歴史絵委員会」と
記されているものがありましたので、
そちらに敬意を持ちつつ、
「歴史絵」としました。
ここからは絵と共に解説を
抜粋・要約・追記していきます。

「雷電為右衛門(雷電爲右エ門)」
「江戸から明治にかけて、
三浦半島は相撲が盛んで、
特に浦賀には、
江戸大相撲の力士が度々訪れ、
中でも文化6年(1809)6月には、
無敵を誇った雷電為右衛門が来て、
東浦賀の東林寺境内で興行をしている。」

「小林一茶と専福寺」
「俳人・小林一茶が残した日記の
文化3年(1806)6月1日の記事に、
東浦賀の専福寺に墓参に訪れたことが
記されている。
墓参は一茶が20数年前
浦賀の地で出会った
初恋の人へのものでもあった。
境内に句碑がある。」

「徳田屋」
「東浦賀で初めて幕府の許可をえて
正式に旅館を営業した家で、
浦賀を訪れた武士や文化人等が
泊まったと記録されている。
特にペリー来航の時には、
佐久間象山と吉田松陰らが
これからの日本のことを
熱く語った場所である。」

「1853年 浦賀に黒船来航」
「サスケハナ
3本マスト木造外車(外輪)フリゲート
長さ:76.20m」
「ミシシッピ
3本マスト木造外車(外輪)フリゲート
長さ:67.06m」
「プリマス
3本マスト木造帆走スループ
長さ:44.96m」
「サラトガ
3本マスト木造帆走スループ
長さ:44.60m」
初めて「黒船」の諸元を見ましたが、
木造を黒く塗っていたから
「黒い船」(笑)略して黒船で、
鋼鉄製ではなかったのですね。
しかも4隻中2隻が蒸気船で、
後の2隻は帆船ですから、
あの有名な狂歌、
「太平の眠りを覚ます上喜撰
たった四杯で夜も眠れず」
これって違いますね!
上喜撰=蒸気船、これは二杯ですし、
僕は半世紀以上も、
誤った知識を持っていた訳で、
ステレオタイプの情報ほど
怖いものはありません。
知識は能動的に取りに行かないと
いけません(反省!)

「ペリーとサスケハナ号」
「嘉永六年(1852)六月、
アメリカ大統領の国書を持った
ペリーが率いる
サスケハナ号以下四隻の黒船が
浦賀沖に姿を現した。
このペリー来航により
鎖国政策はピリオドをうち、
日本の近代化はここに始まった。」

「中島三郎助と鳳凰丸」
「ペリー来航により、
幕府は軍艦の必要性を強く感じ、
浦賀奉行の与力・中島三郎助らに
軍艦建造を命じた。
安政元年(1854)五月、
日本で最初の洋式軍艦
鳳凰丸は浦賀の地で誕生した。」
絵看板は取れたのか、
外されたのか分かりませんが、
今の中学生に頼んで、
この一枚を描いて貰ったら
どうでしょうか?
歴史の一コマに参加出来るなんて、
かけがえの思い出に
なるはずですから!

「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸」
「日米通商修好条約の
批准交換の使節のお供として、
安政七年(1860)一月、
勝海舟を艦長にした
咸臨丸は浦賀を出港した。
福沢諭吉は軍艦奉行
木村正毅の従者として乗り込んだ。
日本人の手による最初の
太平洋横断の航海であった。」

「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック」
「日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に
貢献した中島三郎助の招魂碑の
除幕式の列席メンバーによって
「浦賀ドック」は創建され、
この中心人物が榎本武揚であった。
時を同じくして、
西浦賀の川間の地に
同様の造船所を創ったのは
明治期の大実業家渋沢栄一であった。」
中島三郎助の招魂碑って、
どこにあるんでしょう?
お墓には行く予定ですが、
気になっています。

「ヴェルニーと観音崎灯台」
「明治二年(1869)一月一日、
日本で最初の洋式灯台である
観音崎灯台が点灯した。
開国後の条約で定められた
船舶の航行安全を図るためのものであった。
灯台建設には、横須賀製鉄所
(後の造船所)の所長であり、
技術者のヴェルニーの力に
よるところが大きい。」
正月に店頭とは、
誠にめでたい観音崎灯台です(笑)

「虎踊り」
「享保五年(1720)
伊豆下田から奉行所が浦賀へ
移転してきた。
この時下田奉行所で足軽役として
廻船の船改めをしていた
下田の問屋も浦賀へ移転してきた。
この下田の問屋が伝えたのが
「虎踊りであった。
これに当時江戸で流行していた
近松門左衛門の
「国姓爺合戦」のストーリーを取り入れ、
和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて
浦賀風の「虎踊り」が完成した。
現在は六月中旬の
西浦賀四丁目(浜町)にある
為朝神社の祭礼の折に演じられる
県の無形文化財である。」
ある地域の文化が、
人の移動により、全く別の場所で
花開くという例ですね。
長野県の「信州そば」が、
上田藩主、仙石氏の転封で、
兵庫県の出石に伝わり、
「出石そば」となったのと
同じような流れです。

「干鰯問屋」
「干鰯(ほしか)とは、
鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、
畑、特に綿作りの肥料としては
最適な物であった。
浦賀の鰯干問屋は東浦賀飲みにあり、
江戸時代の初期には十五軒であったが、
寛永十九年(1642)に
三十軒の問屋株が成立し、
大変な繁栄ぶりであった。
元禄五年(1692)
からは灯明堂の維持管理と
年間二百両の運上金を納めるようになった。
町の浮き沈みはすべて
この干鰯と関係があるほど
東浦賀は干鰯一色であった。」
この絵は、「歴史絵委員会」の
小学生が描いています!
めっちゃ分かりやすくて、
上手ですね〜!

「浦賀港とスペイン商館」
「徳川家康は江戸に入ると、
対外貿易積極作を展開し、
江戸に近い浦賀を貿易港とした。
貿易の相手はイスパニアを希望しており、
フィリピンに使いを出している。
この要望を受け入れて
慶長十一年(1606)と
十三年(1608)に
イスパニア船が入港した。
これらを契機にして浦賀には
修道院や商館が建てられ、
金銀島探検の任務をもった
ビスカイノらも浦賀に滞在した。
しかし、浦賀の貿易港構想は
これ以上に発展することなく、
家康の死去とともに消滅した。」
うまく行かなかった事も含め、
紹介して貰えるのは、
かなり嬉しいですね!

こちらはおまけ(笑)
路上の咸臨丸。
こちらも歴史絵に負けず劣らず、
僕たちを魅了してくれます。
この通りは、見どころが多く、
西叶神社へなかなか辿り着けません(笑)