延暦寺・東塔(最澄の生涯)

 

絵看板

東塔とうどうの巡拝受付を通って、

伽藍を見学する前に出会ったもの、

それは「絵看板」です。

伝教大師最澄をはじめ、

延暦寺が輩出した

数々の高僧の物語を絵と文で紹介した

膨大な数の「絵看板群」のお陰で、

比叡山・延暦寺の何たるかが、

微かですが、理解できたこと

感謝しかありません。

伝教大師最澄の生涯

元亀兵乱殉難者鎮魂塚を参拝後、

巡拝受付へ。

ここで、東塔、西塔、横川の

フリーパス券である

「比叡山延暦寺諸堂巡拝券」を購入。

最初に目指すのは「戒壇院」。

「国宝 根本中堂」の文字に、

テンション上がってきた所、

先に見てきたのが絵看板です。

「祖師御行績絵看板について」

案内を超々要約すると

「絵看板は、平成十八年、

開宗1200年記念として建てられた」

このようになります。

左側の並びが

伝教大師の生涯を描いた絵看板で、

根本中堂までの参道脇に

全部で18枚が配置されています。

長くなりますが、

文章を抜粋しながら

書き出してみます。

伝教大師伝(1)

「ご誕生

比叡山の東ふもと坂本の地には、

後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した、

三津首みつのおびとの一族が久しく栄えていた。

ときに

神護景雲元年(767)8月18日のこと、

三津首百枝ももえ公の家に

玉のような男の子が生まれた。

のちに日本天台宗比叡山の開祖となる、

伝教大師最澄上人であった。」

最澄さんが、

三国志でも有名な曹操に実権を握られ、

後漢最後の皇帝だった孝献帝の

子孫だったとは、初耳です。

伝教大師伝(2)

「神童広野(ひろの)さま

幼名は広野といい神童のほまれ高く、

7歳のころ村の小学に学んだところ、

一を聞いて十を知る天稟の才能を発揮し、

村人の師範と仰がれ、とくに仏道には、

はやくから志しがあつかったという。」

伝教大師伝(3)

「仏門に入る

12歳で近江国分寺の

大国師行表法師ぎょうひょうほうしの門に入り、

15歳に至って得度の許しを受け、

名も最澄と改めた。

20歳の春には奈良におもむき

東大寺戒壇院において具足戒ぐそくかいをうけ、

僧侶としての資格をすべて具備された。」

伝教大師伝(4)

「仏舎利のふしぎ

出家ののち、

勉学修行に励まれていた頃

父上のもとめに応じて

故郷の比叡山のふもと神宮禅院にこもり

懺悔の業をおこなった。

日ならずして、香炉の中に仏舎利を感得し、

さらにその容器まで見つけられた。

この仏舎利をまつったところ

多くの霊験があらわれた。」

伝教大師伝(5)

「比叡山に入る

奈良の都の仏教の実情をつぶさにみて、

清らかな山林にこそまことの仏道の

行われるべきところであると痛感された。

そして延暦4年(785)7月に

故郷の地にもどって

初めて比叡山に登りひたすら

坐禅冥想につとめ一心に

修行されたのである。」

伝教大師伝(6)

「三尊仏を刻む

あるとき 仙人たちがお護りする

香気のある古木がみつかった。

大師は、身を清め、

薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の

三体の仏像をお刻みになった。」

伝教大師伝(7)

「延暦7年(788)には比叡山寺

一条止観院いちじょうしかんいん・現在の根本中堂)を創建し、

御自作の薬師如来を本尊とし、

そのおんまえに

永代不滅の常燈明をてづから供えて、

「明らけく後の仏の御代まで

光つたへよ法のともしび」と

詠ぜられた。」

伝教大師伝(8)

「比叡山寺の落慶

延暦13年(794)9月3日、

めでたく竣工した

比叡山寺一条止観院いちじょうしかんいん(のちの根本中堂)の

落慶供養には、ときの帝桓武天皇が

行幸され親しく法会に

臨まれたと伝えられている。」

伝教大師伝(9)

「法華の宣布と高雄講教

比叡山新仏教の理念を

中国天台大師(538〜597)の

法華経観に見出された大師は、

延暦21年(802)の夏、

和気氏の氏寺である

京都高雄山寺での講演会に於いて、

天台大師の三部作

「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の

各書を講ずるや、

大師の名声はたちまち

朝野になりひびいた。」

伝教大師伝(10)

「入唐求法

大師は、

なお一層天台の教えを深く知るために

唐(中国)に渡ることとなり、

延暦23年(804)

御年38歳の7月6日、

遣唐使の一行とともに

肥前国の田浦を船出された。

暴風雨で船が沈みそうになった時、

大師が仏舎利を海に捧げて祈り、

無事9月1日中国明州(寧波)の地に

着くことができた。」

伝教大師伝(11)

「天台での受法

中国における天台宗の祖山天台山に登り、

天台大師の法灯を継ぐ二人の高僧とり

天台の法門を残らず伝えられた。

そのとき、天台山の開かずの経蔵が、

大師の所持する鍵で開いたので、

秘蔵の法具などことごとく

大師に預けたという。」

伝教大師伝(12)

「延暦24年(805)7月

唐から一年ぶりに無事帰国された。

天台の法門や真言密教を世に広めるよう、

朝廷より、勅宣が下され、

延暦25年(806)1月26日には、

南都六宗と並んで比叡山の

天台法華宗(日本天台宗)が

公認されるにいたった。」

僕が住んでいる

福岡県古賀市の海岸に

唐から帰国した最澄が上陸し

ひと月ほど滞在したそうで、

海岸の西側の「三苫(みとま)」という

神功皇后ゆかりの地に鎮座する

綿津見神社には、

その時最澄が彫ったと言われる

「三苫虚空蔵菩薩」が

安置されているのです。

真ん中が綿津見神社の

手彫りの像です。

こんなご縁もあって、

「唐からの帰国」には、

なんか特別な思いが

入ってしまいます(笑)

伝教大師伝(13)

「弘法大師との交際

弘法大師は、大師と同じく

延暦23年(804)に入唐留学された。

両師の交際は、大同4年(809)に

弘法大師が比叡山に

登ってこられたのに始まるという。

その後、親密な交際が続けられたが、

思想的に相容れないものであった。」

伝教大師伝(14)

「東国教化と広済こうさい広拯こうじょう両院の建立

弘仁7年(816)の秋には

東国におもむき下野(栃木県)

上野(群馬県)の地に

それぞれ千部の法華経を納めた

宝塔を造立し、

これを東国教化の拠点とされた。

また、美濃より信濃に通じる

険しい峠に広済こうさい広拯こうじょう両院を建て、

無料宿泊所として旅人の便をはかった。」

伝教大師伝(15)

「奈良仏教との対立

天台宗の所依の経典である法華経は、

人はすべてみな仏の子としての

普遍的尊厳性を強調する。

しかし、当時奈良仏教を代表する法相宗は

先天的差別説をとなえ、

大師と対立し攻撃した。

これに対し、大師は「守護国界章」などの

大著をあらわして、これを論破された。」

伝教大師伝(16)

「学生式の制定と大乗戒の独立運動

弘仁9年(818)52歳の春、

大師はついにみずから小乗の戒律をすて、

もっぱら大乗戒によることを宣言された。

続いて「一隅を照らす」

国宝的人材の養成を眼目とする

「山家学生式」を定め、

比叡山の学生の行動基準を

法華経の精神に基づく

自利利他の大乗戒に求めることとされた。」

ここで書かれた「自利利他」を簡単に言うと

「自分が楽しく幸せにいること

他人を楽しく幸せにすること」。

自分が本当に楽しくなければ、

他人を喜ばせるなんて出来ない

と言う意味にもなるでしょう。

ここで思い出したのが、

宮崎県の白鬚神社で出会い

大いに共感した、

「自分の為めに

生きてこなかった者に

人の為めになど

できる道理がない」

この言葉です。

やはり大切なのはまず自分の「心」。

ここで最澄さんの絵看板に

出会って良かった〜(笑)

伝教大師伝(17)

「ご入滅

大師は弘仁13年(822)

病の床につかれた。

やがて「わが志を述べよ」、

「童子を打つことなかれ」

などのお言葉を遺して、

静かに56年にわたる

偉大な生涯を終えられた。」

伝教大師伝(18)

「滅後の余光

大師入滅の翌年、弘仁14年(823)

2月26日には大師の最大の理解者であり、

かつ天台宗を勅許された

桓武天皇ゆかりの元号であります

「延暦」を寺号とし

「比叡山寺」を改めて「延暦寺」と

称することとなりました。

それから44年後の

貞観8年(866)には清和天皇より、

「伝教大師」の

諡(おくりな)をたまわりました。

大師の開かれた比叡山からは

鎌倉仏教の各宗祖師を輩出したことから、

「日本仏教の母山」として栄え、

大師の余光は滅後

1200年以上経った今もなお

燦然と輝いているのです。」

ここまでで、おしまい(笑)

(続く)

 

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