防府市護国神社(山口県防府市)
魂が戻る場所
防府市の低山、桑山には、
野村望東尼の墓や
奇兵隊と共に倒幕のために戦った
諸隊の墓碑など、
維新に関わる人々を弔う場所が
多くあり、言わばここは鎮魂の山、
魂が戻る場所と言って
差し支えないでしょう。

Googleマップで見ても
やはり慰霊の山ですね。
参道
野村望東尼の墓をお参り後、
防府市護国神社までは、
公園内を通る参道を使います。

石段の先には神社の参道らしく
燈籠が見えています。

先ほどのGoogleマップでは、
「わんぱく広場」と記されている場所で、
筒状の滑り台など、
僕が子供だったら時間を忘れて、
遊びまくりたくなるような(笑)
遊具が揃っています。

案内図。
右側の黄色く塗られた
縦長の長方形の広場が、
幕末〜維新にかけて
「軍事調練の場」であった
護國神社の神域です。

あと150m。

あと100m。
野村望東尼の墓も同じでしたが、
ここはとにかく道案内が、
細やかに建てられていて、
初見参者にめっちゃ優しいのです。

あと70mですが、
ここでちょっと寄り道を・・

「長州藩海軍関係墓碑」

「ロシア船の北方(樺太や択捉島)への
襲来事件(文化露寇)は
対外的危機意識を生み、
長州藩の対外防備の契機となり、
第七代萩藩主・毛利重就が創設した
会計機関「撫育方」の資金をもとに、
陸海軍の洋式化が進められます。
元治元年(1864)には、
下関での四ヶ国連合艦隊による報復により、
長州藩海軍関係の
多くの若い人材が失われますが、
高杉晋作の挙兵と
諸隊の決起により成立した新政権は、
慶応元年(1865)、
藩是を「武備恭順」へと転換し、
かつて敵対した薩摩藩と接近し、
軍事力の近代装備をさらに進めていきます。
【墓碑9基(順不同)】
《馬関戦争・戦傷死》
井原嘉平次
小山惣右衛門 助重助三郎 横山市中
《馬関戦争・戦死》
斎藤亀蔵 堀寅蔵 山本弥八
=墓碑前列の2基=
○山田亦助(萩・野山獄刑死。贈正四位)
村田清風のおい。
山田顕義の叔父にあたる。
弘化二年以来、
長州藩の海防の実務において
中心的な役割を果たす。享年55歳
○松島剛蔵(萩・野山獄刑死、贈正四位)
楫取素彦の実兄。
高杉晋作、久坂玄瑞らと共に
御楯隊を結成。
萩藩海軍局の初代管轄者で、
長州藩の洋式海軍創設に
中心的役割を果たす。
享年40歳」
大楽寺の南墓地でお参りした
楫取素彦さんの実兄も
ここにいらっしゃいます。
萩・野山獄刑死と言うことは、
俗論派に囚われての死だったのかな?
そう思いWikipediaを見ると
やはりそうでした。
以下、Wikipediaのコピペです。
「元治元年(1864年)、
禁門の変が起こり、
久坂玄瑞らが戦死する。
幕府による第一次長州征伐で
俗論派が藩政権を握ったため、
松島は萩野山獄に投ぜられる。
同年12月16日、
「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が
萩に伝わるや、
その3日後の12月19日に処刑された。
享年40(満39歳没)。」
功山寺挙兵成功の裏に、
このような悲話があったとは・・
ただ、戦いというもの、
常にこのような事は
当たり前に起きています。
人間の憎しみ恨み、
これは人類が存在する限り、
未来永劫なくなりそうも
ありません・・

墓域内へ。

皆様に参拝。

松島剛蔵さんのお墓には、
さらに念入りに参拝。

こちらにも墓碑が見えているので、
お参りすることに。

「干城隊等墓碑」に参拝。

「干城隊等墓碑」
「干城隊は、慶応元年(1865)一月、
高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、
萩において、
藩論統一を希望する
藩士だけで結成されました。
総督は福原駒之進、
頭取はのちの前原一誠。
戊辰戦争では、
奇兵隊と共に官軍の主力部隊となり、
北陸方面で戦いました。」
総督の福原駒之進は、
もしや禁門の変の責任をとって切腹した
宇部領主の福原元僴(もとたけ)の
息子かもと思い調べると
元僴さんの娘と結婚して、
養子になった方でした。
きっと義父の無念の死を乗り越え、
また、それを原動力として、
倒幕に邁進されたのでしょう・・・

こちらは宇部護国神社の福原元僴像です。
4年以上前に行ったので、
妻はもう忘れているはずです(笑)

「遊撃軍墓碑」に参拝。

「遊撃軍(遊撃隊)は、
文久三年(1863)十月、
周防国宮市(現在の防府市宮市)の
町人や農民、土佐藩を脱藩した
池内蔵太などの浪士らを
組織して結成された諸隊の一つで、
来島又兵衛が初代総督となり、
元治元年(1864)の
禁門の変(蛤御門の変)には
主力部隊として参戦しました。
同年十二月、
高杉晋作の功山寺挙兵に呼応し、
幕府に恭順しようとする
俗論党との戦い(内訌戦)に参戦します。
さらに、慶応元年(1865)には、
藩の正規軍として認められ、
この後、第二次長州征伐(四境戦争)と
戊辰戦争を戦い抜きます。」
御社殿
墓碑参りが終わり、
ようやく護國神社へ。

元の「軍事調練の場」が、
そっくり残っているような広場で、
隊士たちの姿が目に浮かびます・・・

御社殿へ。

拝殿正面。
左右の銀杏の木の
黄色と緑のコントラストが、
なかなかいい感じです。

奉納された弾丸。

「防府市護国神社」
以下、前半部分を抜粋します。
「当境内地は桑山招魂場と呼び、
慶応元年五月、御楯隊士等が
調練の場として開拓に着手し、
同年九月完工しました。
明治三年九月に元整武隊士等が相議り、
ここに招魂社を創建し、
明治維新殉国の烈士品川喜一等
五十三柱の英霊を奉祀しました。
その後、日清、日露の両役を始め、
太平洋戦争に至る数次の国難に殉じられた、
郷土出身戦没者の忠魂義魄を合祀し奉った、
英霊永久に鎮ります神社です。」

参拝。

達筆過ぎる神額。

本殿に参拝。

本殿左側から右側へ。

本殿右側。

ここでツーショット完了。