茨城縣護國神社・ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑

 

導き

今回の茨城旅行の直前まで、

水戸市内へ行く予定は、

全くありませんでした。

ところが、

妻が楽しみにしていた霞ヶ浦近くにある

鹿島海軍航空隊跡の公式Xに

急遽お休みのお知らせが表示され、

筑波海軍航空隊記念館から先の

旅程変更をせざるを得ない状況となり、

はからずも、

水戸市の茨城縣護國神社に建つ、

「ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑」を

拝むこととなったのです。

その後、水戸城も散策でき、

夜には、これまた予定になかった、

千葉県との県境、成田空港近くの

「かわちイルミネーション」の

素晴らしい光景までが見られ、

鹿島海軍航空隊跡の臨時休業は、

僕たちに無尽蔵なほどに

旅のハッピーを与えてくれたのです。

こんな経緯を思えば、

いつか鹿島航空隊基地跡を訪問し、

感謝を伝えなきゃいけませんね!

顕勲の塔

拝殿で参拝後、

近くにある顕勲の塔へ。

全景。

参拝。

案内は、文字が風化したり

文章が難しいので、

神社のサイトから

分かりやすい解説を

コピペさせていただきます。

「この塔は、

日清の役から太平洋戦争までの

幾多の戦いにおいて、

国のため散華された県下の

五万八千余柱の英霊を慰め、

その遺勲を後世に伝えようと

県のはからいにより、

全遺族の祈りをこめて

建てられたものであります。

なお、この塔には、

支那事変以来分骨された七、七〇〇余柱の

遺骨が納められてあります。

諸霊やすらかにこの地に鎮まり、

郷土の平和と繁栄にながく加護を

垂れ賜りますよう祈念いたします。

昭和三十八年三月

題字 茨城県知事 岩上二郎

撰文 財団法人茨城県遺族連合会

理事長  遠山 勇」

慰霊碑的なものに、

ご遺骨を埋葬されているのが、

珍しくもあり、

また、心に響いてきます・・・

五万八千余柱のご英霊達は、

皆それぞれが、あの空の上から

家族の幸せ、茨城県民の幸せを

願っていらっしゃる事でしょう・・

戦没者留魂の處

顕勲の塔参拝後その傍に建つ慰霊碑へ。

「戦没者留魂の處」に参拝。

「戦没者留魂の処と碑」

以下、要約です。

「戦没者の納骨施設として、

昭和二十五年十一月水戸市堀町の

旧陸軍墓地跡に建設し、

七千七百余柱の分骨を納骨していたが、

昭和三十八年三月に

「顕勲の塔」が建立されたため、

この分骨は顕勲の塔内に移管され、

留魂の処には碑のみが残された。

このたび、留魂の処の跡地を

水戸市に返還したことを機会に、

この碑及び灯籠などを

ここに移転したものである。

昭和五十九年六月吉日」

ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑

10年ほど前の護國神社参拝時、

ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑にも

お参りはしていますが、

やはり今回は、ここに来る直前、

筑波海軍航空隊記念館で、

ペリリュー三昧」した後なので、

深く身に染みるお参りとなりました。

広場の右側が入口です。

お邪魔します・・

お日様も僕たちを

歓迎してくださっているような・・

「ペリリュー島守備部隊 鎮魂碑」に到着。

参拝。

妻、敬礼!

鎮魂碑の背後にある解説の一部を

要約・抜粋します。

「昭和十九年九月15日、

四万有余名の米軍機動部隊来襲し、

想像を絶する砲爆撃の援護の下海面を圧する

敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。

爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、

洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、

持久の任務を遂行したが、

十一月二十四日、遂に戦力尽き、

中川部隊長は、軍旗を奉焼し

決別電報「サクラ・サクラ」を

打電して自決、

残る将兵は遊撃戦に転じ

悉く悠久の大義に殉じた。

ここに、その偉勲を景仰し、

英霊の御加護による

祖国の平和と繁栄を祈念して、

五十年祭を期し、志相図り、

この碑を建立する。

平成五年(1993)十一月二十四日

歩二会・ペリリュー島慰霊推進会」

ペリリュー島位置図。

10年前、ここに

平成の天皇皇后両陛下は、

慰霊の旅に行かれたのですね・・

ペリリュー島守備部隊。

主力は水戸歩兵第二連隊、

その他群馬などを含め、

各地出身者がいます。

海軍も「航空部隊」とはありますが、

もはや飛行機はなく

みんな陸戦隊ですね。

そして参拝後、

妻が鎮魂碑の近くで見つけたのが

こちらです・・

桜!

なんと季節外れ(12月)の桜ですよ!

花びらアップ。

確かに桜ですね!

ペリリュー島の決別電報

「サクラ・サクラ」・・・

そして鎮魂碑の傍に咲く「桜」・・

この桜の花びら一つひとつが、

ペリリュー島守備部隊の方々の

魂にも思えてきます・・・

きっとそんなご英霊達が、

妻にこの桜を

教えてくれたのでしょう・・

マヌス島岩上大隊慰霊碑

「マヌス島」は、

日本兵の多くが「餓死」した

ニューギニアの一部ですが、

この島の名前を知る日本人は、

多くはないでしょう。

僕は「マヌス島」と聞いて、

一番に思い出すのが、

やはりインドネシア攻略と

ラバウルを終戦まで維持した

今村均中将の逸話でしょう・・・

一方的な戦犯裁判で有罪となり

巣鴨刑務所に服役していた今村中将は、

「部下が服役しているマヌス島で、

自分も一緒に服役したい」

そう申し出て、GHQの許可をとり、

わざわざマヌス島まで行き、

部下と共にそこで刑期を終え、

帰国されています。

そんなマヌス島から、

全滅した岩上大隊のほんの一部の方が、

ご帰還されているのです・・・

ニューギニアでの戦いは、

現代に生きる日本人ならば、

どんなに過酷で悲惨なものだったかを

知っておくべきだと思います。

(どこの戦場でも悲惨だが・・・)

日本軍のお偉方には、

補給という観念が無く、

米軍からは、

「そのうち餓死するからほっとけ」

とまで言われたニューギニア戦・・・

あの悲惨な戦争は二度とご免だ、

平和、平和と

ただ呪文を唱える前に、

歴史を直視して、行動することこそ

平和への近道ではないでしょうか。

そんな思いを

改めて起こさせてくれたのが、

マヌス島岩上大隊慰霊碑です。

まずは参拝。

「鎮魂」の二文字のプレートに、

改めてご英霊の魂に

思いを馳せます・・・

以下、案内の要約・抜粋です。

「茨城健児八百有余名は、動員下命により

応召、第一連隊(剛四八一九部隊)

第二大隊(岩上隊)を編成、

昭和十九年一月、

アドミラルティ諸島ロスネグロス島に

増派を命ぜられ守備につく。

同年二月二十九日、

米豪連合軍のが上陸。

三月三日夜襲による

総攻撃を敢行せるも

部隊長以下多数の戦死者を出し玉砕。

かろうじて生存せる者、

マヌス本島に転進するも、

食糧全く尽き、木の実、草の芽、

その他ヘビ、トカゲに至るまで総てを

食しながら遂にマラリア、アメーバ赤痢等

病魔に侵され全滅せり。

時に昭和十九年三月三十日なり。

戦後、九死に一生を得た十六名と相図り、

マヌス島遺族会を結成し、

マヌス島にて慰霊祭を行う。

その時、抱き帰し現地の霊砂と、

故人の愛用せる遺品等を此の地に埋葬し、

永遠に今な亡き戦没者のご冥福をお祈りし、

併せて、二度と戦争を繰返すまじきことを

誓うものである。

願わくば在天の諸霊

安らかに眠られんことを。合掌

平成元年五月吉日(1989)建之

岩上大隊遺族マヌス会」

実際に戦争体験していない僕は、

その過酷さを

この記述から想像するしかない事が、

もどかしくもあります・・

命を賭して国を守れれた先人達、

ただ安らかにお眠り下さいという他、

言葉が見つかりません・・・

赤道直下ですよ・・マヌス島は。

全員のお名前が刻まれています。

水戸市街遠望

鎮魂碑参拝後、

社殿前に戻り、いつもの儀式を(笑)

ツーショット完了。

参道を戻っていくと・・・

お〜水戸の街が見えてますね!

御英霊の皆様も

発展した水戸の街並みを

ここからご覧になって

いるのでしょう・・・

 

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