伊東家累代墓地(宮崎県日南市)
廃寺になっても・・・
旅をしていると、
菩提寺となっていたお寺が、
明治の廃仏毀釈で廃寺になり、
菩提寺は無くなったまま
お墓のみが存在するというケースに
遭遇する事があります・・・。
伊東家累代墓地もその一つに
なる可能性もあったのでしょうが、
明治初期、
伊東家の菩提寺である
「報恩寺」が廃寺された僅か数年後、
伊東家の方々を祭神とする
五百禩(いおし)神社が建立され、
寺から神社へのバトンタッチが、
うまく成されています。
歴代の藩主を崇敬する
飫肥藩の方々のお気持ちが、
このように幸運な
結果に繋がったのかも知れませんね。
伊東家累代墓地へ
五百禩神社の
本殿裏側に広がるのが、
伊東家累代墓地です。
お墓への入口。
仁王像。
江戸時代からのもでしょうか?
吽形。
墓地の案内。
江戸時代、藩主の墓は、
江戸と地元の
二箇所にある場合が多く、
伊東家の場合もやはり
ここ飫肥(日南市)と
江戸(東京都)の
二つが存在しているようです。
やはり一番お参りしたいのは、
初代藩主、
伊東祐兵(すけたけ)さんです。
まずは、全員に一礼。
手前左は、祐兵さんの父、
戦国大名としてブイブイいわせていた
義祐さんで、
伊東家の全盛期を築いた人です。
Wikipediaによると
天正少年使節の一人、
伊東マンショは、義祐さんの
娘の子(要するに孫)で、
マンショさんは、
伊東家が飫肥を島津に取られ、
命からがら豊後に逃げていた時に
キリシタンとなり、
有馬のセミナリヨで学び、
ヨーローッパに行ったそうです。
初代藩主、伊東祐兵さんに参拝。
島津に追いやられるも
あきらめない強い心で、
これまたあきらめない奥様(笑)
松寿院と共に豊後(大分)、
伊予(愛媛)、と生き延び
織田信長配下の羽柴秀吉に士官し、
武功を認められ、
遂に飫肥に返り咲いたからこそ、
今僕たちはこうして伊東家の
お墓に参ることが出来るのです。
別角度からお墓を撮影。
これにて、
伊東家累代墓地参拝は完了・・・
あっ!
あきらめない妻、
松寿院のお墓にお参りするの
忘れてた~(汗)