伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)(6)
弥生人
弥生時代の人は、
のっぺり顔の渡来系、
その前の時代、
濃い顔の縄文人と
ミックスされて、今の日本人が
構成されたそうです。
そんな説からすると僕は縄文人、
妻は弥生人かな?(笑)
伊都国歴史博物館には、
そんな弥生人の人形が展示されています。
お~「のっぺり顔」ならぬ、
「のっぺらぼう」?
いや、視点はそこじゃなく、
服装です(笑)
平原古墳に埋葬されていた
女王の服装を想像して作ったそうで、
まさに「お姫様」ですね!
平原遺跡以外の遺跡
平原遺跡について、
かなり詳しく見て歩いたので、
疲れが出てしまい、
ここからはかなり
「流して」しまいました(汗)
「三雲・井原遺跡」
「伊都国最大の遺跡で、
三雲南小路王墓などが
見つかっています。」
左側のパネル、
全国の大規模な集落を見ると、
三雲・井原遺跡は、
吉野ケ里遺跡の約2倍の規模で、
全国一の広さとなっています。
「伊都国びとのくらしー上鑵子遺跡」
「弥生時代~奈良時代の集落遺跡。
出土した弥生時代中期~後期の
1500点を超える木製生活用品は、
これまで謎とされてきた伊都国びとの
くらしぶりを知る上で貴重な資料です。」
右、
「満たす」
伊都国びとの食べ物が
米だけでなく肉、魚、果実など
バランス良かったことが
書かれています。
思った以上にグルメだったのかな?(笑)
左、
「まつる・祈る」
「弥生時代から始まった稲作のまつりは、
稲の成長にあわせて節目ごとに
行われました。
なかでも、秋のまつりは収穫した稲を
神にささげる最も重要なものでした。
弥生時代には、
新嘗祭の先駆け的な
お祭りが始まっていたのですね。
そして、
ここの展示で注目したのが、
次の二つです。
右の「犬形木製品」。
狛犬の「元祖」かも?(笑)
「人物線刻板」
弥生人の描いた絵が、
覆面レスラーというか、
ウルトラマンというか、
入れ墨の習慣が
あったのかも知れません・・。
「住まう」
基本、吉野ヶ里遺跡で
復元されたものと同じで、
竪穴住居、高床倉庫と
なっています。
弥生時代の船
観覧中、
船内に入ってくる水を
人力で掻き出しながら航行したという
命懸けの構造を持った、
弥生時代の船を知って、
俄然興味が湧いて来た所、
ラッキーな事に、
発掘された船の実物が、
限定公開されていたのです。
お~!
弥生人が乗った船だ~!
水を必死に掻き出している姿が、
目に浮かびます(笑)
案内を書き出すと、
以下になります。
「平成16年に行われた
潤地頭給遺跡の発掘調査で、
深さ2mの井戸の井側
(井戸の壁材)に
転用された長さ2m弱の
板材が6枚出土した。
板材を詳しく調べたところ、
船の部材であることがわかった。
井戸は出土した土器によって、
古墳時代初頭に
掘られたものであることが確認されたが、
井戸の掘削以前に
使われなくなっていた船材が
転用されたと考えられ、
弥生時代後期後半~終末期
(2世紀後半~3世紀初め)に
使用されていた船である可能性が高い。」
「発見の意義」
要約すると
「弥生時代の
準構造船の出土は数例のみで、
潤地頭給遺跡出土の事例は
極めて重要である。」
このようになります。
1800年前の木が
よく腐らずに残っていたな~と
思う前に、
よく沈まずに最後まで
使っていたな~という
思いが頭をよぎり、
改めて弥生人の「勇気」に
感心してしまいます。
古墳時代
弥生時代の次の時代、
古墳時代の展示もあります。
「古墳文化の新たな波ー横穴式石室」
「4世紀の終わりごろに朝鮮半島から、
横穴式石室という
新たな埋葬手法が伝わりました。
石室の横に出入り口設けられ、
何度も埋葬できるようになりました。
糸島ではこの石室のつくり方を、
いち早く取り入れました。
その後、
この石室は次第に周辺地域に広がり、
6世紀になると、
わか国では横穴式石室が
主流になりました。
古墳時代になっても、
糸島は大陸文化を受け入れる
窓口として重要な位置にありました。」
釜塚古墳と、
その横穴式石室の模型。
(5世紀前半)
「一貴山銚子塚古墳
玄界灘沿岸最大の前方後円墳」
「全長103m。
古墳時代前期に
玄界灘沿岸一帯で
勢力を誇った王の墓です。
石室内から10面の銅鏡をはじめ、
玉類や鉄製武器など
たくさんの副葬品が出土しました。
荒らされていないため、
埋葬当時のまま発見され、
副葬品の納め方がよくわかる貴重な例です。
出土した鍍金(金メッキ)の銅鏡は、
国内では数少ない珍しいものです。」
1700年間もの間、
盗掘にあっていないとは、
奇跡と言えるかも知れません!
(続く)